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「俺、アルゼンチンに帰化しようと思ってる」

 その言葉に、高校3年の秋に卒業後の進路について告白された時のことを思い出す。ほんの一瞬、言葉が理解できなくて頭の中が真っ白になるあの感覚。でもあの頃よりももっと凄いことを言われたことはかろうじて理解できた。
 キカ。きか。帰化。

「帰化⋯⋯」

 かろうじて口に出来たのはただのオウム返し。

「前々から考えてて準備も進めてはいたんだけど、名前の言葉聞いて、覚悟決めた」

 私の言葉にそれだけの力があるようには思えないけれど。それでも徹は私の言葉から何かを感じたのだろう。自分の言葉を思い返しながら、深く息を吐き出す。
 私はてっきり、武者修行のように数年アルゼンチンでバレーをしたら日本に帰ってくるものだと思っていた。いつかは日本代表に選ばれて、日の丸を背負って世界と戦うんだと思っていた。
 勝手に、思い込んでいた。

「えっと⋯⋯はじめには」
「うん。これから言うつもり」

 はじめより先に私が重大な事実を知ることになるなんて想像もしていなかったな。何を言うべきか言葉を探したけれど言いたい言葉も言うべき言葉も見つからない。
 帰化するってことは徹はもう日本人じゃなくなるわけで、だからといって徹の何が変わるではないとわかっているけれど、それでも予想すらしていなかった徹のその決意は私を動揺させるには充分だった。

「あ⋯⋯"全員倒す"?」

 ふと、昨日の徹の言葉を思い出す。中学時代や高校時代、徹と試合を交わした選手たちを思い浮かべる。影山くん。牛島くん。ああ、全員って、そうか。そういうことなのか。

「日本にいたら仲間になっちゃうからね」

 納得と寂しさが心を満たす。徹はそういう覚悟でこれからもバレーをやっていくんだ。いや、違うか。ずっとそういう覚悟でやってきたんだろう。
 寄り添いたくても寄り添えないことはどうしたって存在する。私はこれからも徹が大変なときに側にいることはないんだろう。

「まあ帰化してもすぐ国の代表になれるってわけじゃないけどさ。そこからは俺次第だし」

 この9日間で徹の暮らす国を少しだけ知った。食べ物は何が美味しくて何が有名でどんな空気なのか。建築物や信仰心、人となり。9日間で得た私の経験は細やかなものだけど、それでもほんの少しだけ知ることができたこの国で徹は生きていく。
 これから先の季節に徹はいない。日本に徹はいない。南半球に暮らす徹とは見上げる星空も異なってしまうけれど。

「⋯⋯幼馴染がアルゼンチン人なんて聞いたことないよ」
「ははは、確かに」

 徹を見つめる。
 それでも私はその覚悟を尊重してあげたい。誰よりも相手を想ってくれるこの人に、誰よりも最高のバレーボールをしてほしい。

「徹、バレー好き?」
「え、何急に」
「コートの中にいることは心地良い? 前に立つことは辛くない? 挑み続けることから逃げたくなるときはない?」
「ちょ、ちょっと名前?」
「私ずっと思ってた。徹が辛いとき何もできないって。悩んでるとき話を聞くこともできない。わかってあげられない。苦しんでても支えてあげられない。幼馴染なのに不甲斐ないって」

 私が徹にしてあげられることは何だったんだろうか。その答えをずっと探している。
 もしかすると、だから私は徹を好きになってしまったのかな。茨の道ですら躊躇うことなく歩こうとするこの人を、せめて一人で傷つくことがないようにと、その手を握っていたいと願ってしまったのかな。

「いやいや名前は十分やってくれてるって」
「でも私、何もできなかった」

 言葉を発することなく徹は首を左右に振った。 

「居てくれることに意味があったよ。それに俺と岩ちゃんがきっかけで管理栄養士目指したの、実は結構嬉しいんだよね」
「嬉しい?」
「同じコートには立てないけどさ、方向は同じほう向いてる感じするっていうか、仲間っぽい感じ? あっでも名前は日本選手側だから⋯⋯敵!? 岩ちゃんとタッグ組んで俺のことボコボコにしようとかしないでね!?」
「えー⋯⋯なにそれ。気が抜けちゃうじゃん」

 気持ちを見抜かれて、優しい瞳にほらまた、私が映っている。この人が好き。大好き。
 ちゃんと零せたと思ったのに。もういいって思ったはずなのに。長年蓄積した気持ちっていうのは自分が思っていたよりもずっと多く心にあるらしい。

「大丈夫。帰化したって俺は俺だし、何も変わらないって」

 そうだね、そうだよね。徹の本質が変わるわけではない。
 深い呼吸を数回繰り返し、心を落ち着かせて本来の目的を思い出す。
 そう。きっとこれからも私はその人生が清く、美しく、そして優しいものでありますようにと願い続ける。

「私、何があっても徹の味方だから。敵でも、世界で一人だけになったとしても、絶対に徹の味方だから」
「なに、凄い、ははは、頼もしいね。そっか。それなら俺、最強じゃん」
 
 瞬きを幾度か繰り返した徹は、私の言葉を聞いてはにかむように笑った。 

「あのさ、徹」
「ん?」

 穏やかな声。緩やかな空気。これまでの日々をもう一度思い返した。そしてこれから先の日々を思い描く。聞いて。私の大切な気持ちを。

「私、ずっと徹のことが好きだったんだよね」

 果てもないと思えるほど積み重ねた感情を、その日、私はようやく口にした。
 
(21.05.26)


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