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 過ぎ去る景色にここへ来た日のことを思い出す。見るもの全てが新鮮で、躍る心に潜む緊張感を持て余していた車の中。今でも文字は読めないし看板に写ってる俳優だって知らないけれど、2度目の景色は懐かしさを感じる。きっともう2度と見ることもないだろう景色。

「確認したからないとは思うんだけど、もし忘れ物あったら処分していいからね。さすがにここからじゃ送料も時間もかかるし」
「もしあったら確認して次日本に行くとき持って帰るって」
「まあないと思うけど」

 フライト時間までは十分な時間があるけれど、余裕を持って徹の部屋を出発した。タクシーは躊躇いもなくスピードを加速させる。

「名前めちゃくちゃ確認してたもんね」
「途中から私も確認してるのか荒らしてるのかわかんなくなってきてたもん」

 背もたれに体重を預け、車の揺れに身を任せた。まるで昨日の私の告白がなかったかのように私たちは何も変わらなかった。冗談も言うし、距離を取ることもない。至って普通の、これまでと同じ幼馴染。
 それとも私が気付こうとしていないだけで、本当は何かが変わったんだろうか。太陽が昇るみたいに、ゆっくりと何かが。

(むしろ変わらないものなんてないか)

 何事もなく空港へ着くと、トランクに入れていたキャリーケースを下ろしてもらう。今度はここへやってくる人を乗せて市内に戻るのだろう、私達を乗せてくれたタクシーは空港のタクシー待機列の方へ消えていく。
 空港内に入り、先にチェックインを済ませて荷物を預けた。日本へ帰る為の移動がここから始まる。

「なんかあっという間だったな。徹は最初に何もないって言ってたけど、いろんなものがあって退屈なんて全然しなかったよ」
「なら良かった。俺も名前が来てから今日まであっという間だった気がする」

 柔らかな声色に乗せて、この10日間を想う。
 日本では見られない景色。初めて食べる料理。何を言われているのかわからない会話。頬を撫でるぬるい空気と、マテ茶の香り。頭だけじゃなく体で、五感の全てでこの国に触れられた。

「私、アルゼンチン好きだよ」
「え?」

 私の恋はここで終わった。徹がこれからを生きていくと決めたこの国で終わらせられた。

「サンフアンで過ごした日々、本当に楽しかった。ここに来られて良かったって心から思う」

 見つめ合う。私の好きな人。好きだった人。これまで何度も何度も見つめ合って、お互いの瞳にお互いを映し合ってきた。
 出会った頃は同じ視線で世界を見ることができたのに、私の知らない場所で時間を重ねた徹はあの頃よりもずっと大人びて、逞しくなって、そしてかっこよくなった。
 そんな徹をいつか世界中が注目して、その素晴らしさを知るのだろう。

「名前」
「なに?」
「ありがとう」
「お礼言われるようなことしたっけ?」
「来てくれたことも、本音を伝えてくれたことも」
「……うん」
「俺、全部が本当に嬉しかったから」

 恋人にはなれなかったけれど、徹と幼馴染で良かった。出会えて良かった。好きになれて良かった。ここへ来られて良かった。好きと言えて良かった。
 今に繋がる過去が全て愛しい。

「徹。約束しようよ」
「約束?」
「私達はお互い、それぞれの夢の為にがむしゃらに頑張る。なりたいものになるために、立ちたい場所に立つために努力する。弱音を吐いてもいいし、へこんでもいい。本当に無理なら逃げてもいいけど、自分の気持ちに嘘をつくことはないようにしよう。それでお互い、ちゃんと自分の夢を叶えよう」
「いいね。俄然やる気でる」

 小指を差し出して指きりをする。
 いつかまた会う日まで。夢に向かってひた走る徹の力になれる日まで。

「またね、徹」
「またね、名前」

 こぼした恋心は掬い上げない。次へ進むと決めたから。


◇  ◆  ◇


 乗客を乗せた飛行機は機体を加速させ、その大きな体を陸から離した。雲のない快晴。上空へ向かっていく飛行機の窓からはサンフアンの街並みが見える。
 私が10日間を過ごした街。恋を置いてきた街。幼馴染が暮らす街。

(本当にあっという間だったな……)

 失恋した痛みなのか、もうこの街に来られることはないだろうという推測からなのか、少しだけ泣きたくなるような衝動に駆られた。見える街が小さくなる。置き去りにした恋が遠くなっていく。
 私の旅が終わる。終わらせるために始めた旅がようやく終わる。恋は終わりを告げ、死ぬまで忘れない私だけの恋は、育った場所とは違う国で散らばった。

(大丈夫、大丈夫⋯⋯)

 ただひとつ交わした約束だけが、私に優しく寄り添っていた。
 
(21.05.28)


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