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「おつかれさん」

 ロサンゼルスに着いてはじめの顔を見た瞬間、私にやってきたのはどうしようもないほどの安心感だった。
 重たい荷物を手放した時のように身体から力が抜けてゆくのを感じる。張っていた気持ちが一気に緩んでこのまま座り込んでもおかしくない程、その声は私を包み込む優しさに溢れていた。

「はじめ⋯⋯」

 私の声色と顔つきで全てを察したのかそれ以上を問うこともなく、私の肩にかかったサブバックを貸せと言うように手を差し出す。
 そういうところ本当に徹と似ていると思いながら素直に差し出せば、ハワイのお土産でもらったプルメリアの描かれたトートバッグがはじめの体の横に添えられて、ミスマッチなその画に私はちょっと笑ってしまいそうになった。

「疲れたろ、フライト」
「ちょっとね。行きと違ってロスで一泊出来るから気持ちが全然違うけど」
「どうする? メシでも食うか?」
「お、いいね」

 はじめの隣を歩く。
 サンフアンとは全く異なる景気が視界を埋め尽くしているからなのか、聞こえてくる言語が英語になったからなのか、途端にアルゼンチンが遠い国の、それこそ世界の果てにあるような感覚を覚えた。数時間前までは南米に自分がいたということがにわかに信じがたい。日本ではない国で幼馴染に会っているという事実は同じなのに。

「徹、元気そうだったよ」

 ダウンタウンにあるクラシックなダイナーに入り、人気だというハンバーガーを注文してすぐに、私は言った。
 避けることも出来たかもしれない話題を私から口にしたのは、はじめに伝えないという選択肢がなかったからだ。誰よりも私の気持ちを知ってくれていたはじめにはこの10日間のことを全部知っておいてほしかった。

「あと、アルゼンチンも良い場所だった」
「そうか」
「気持ちも伝えられたし。まあ、結果は思ってた通りなんだけど」
「おう」
「それでも、うん。行って良かったなって心から思ってる」

 程なくして運ばれてきたハンバーガーと飲み物は想像以上のボリュームで、失恋の直後に食べる量ではないなと、その光景を見て思う。

「名前が良かったって思ってんなら俺から言うことはねぇよ」
「そっか」
「まあ、でもよく頑張ったな」

 はじめの言葉にぐっと、胸が詰まる。
 この光景が可笑しいはずなのに、バーガーのソースもフライドポテトの塩分も、勢いで頼んでしまったコーラも、どれもこれも今の私にはパンチが効きすぎているんじゃないかな。 
 そのしょっぱさと、はじめの言葉のせいで我慢していた涙がこぼれそうになった。

「⋯⋯頑張ったかな、私」
「頑張っただろ」

 大きな口を開けてハンバーガーを頬張るはじめを見つめる。口の端にケチャップがついているよと指摘するのも忘れて、徹を好きだったこれまでの日々を思い返す。
 徹に彼女が出来た日も、デートにはならない外出をした日も、3人で過ごした何気ない日も、アルゼンチンに行くと告げられた日も、私はずっと徹が好きだった。揺らぐことなくただひたすらに徹だけを好きでいた。
 本当に、長い長い片思いだった。

「わかってたつもりだしさ、期待とかしないようにしてたし、覚悟とかもしてたんだけどさ」

 空気が震える。いや、震えていたのは私の喉なのかな。息がうまく吸い込めなくて、感情は全て瞳からこぼれてくる水分に凝縮された。
 一瞬だけ驚くような顔をしたはじめは、ペーパーナプキンを私に渡してきたけれど、涙を拭うには紙質が硬くて私はまた「可笑しいな」と感情とは反対の感想を抱いた。

「あー⋯⋯本当、嫌になっちゃうよね。報われない片思いなんてさ。でも、自分でもどうしようもできないんだから仕方ないよね」

 店内に流れるオールドミュージックが優しく寄り添う。こんな日でもお腹は空いて、喉は乾いて、幼馴染と会えば嬉しいと思う。人間って、やっぱり欲張りだ。

「やっぱりあいつはクソだな」
「あはは」
「空から鳥の糞でも落とされればいいのにな」
「はじめが言うと本当にそうなりそう」

 徹に対してももっと欲張れば良かったのかなと、ふとそんなことを思った。もっと感情を露わにしてもっともっと徹を困らせたら。そうなったときの徹の顔、ちょっと見てみたかったな、なんて。結果は変わらないことくらいわかってるけど。

「こんなに長く一緒にいたのに私の気持ちに気づかないなんてふざけんな! こっちはどれだけ片思いしたと思ってるんだ! くらい言っておけばよかったかな?」
「それでも足りないくらいだろ。グーで殴ってもいいくらいだな」
「あはは。それはさすがに」

 はじめがいてくれて良かった。いてくれたから1人で泣かなくて済んだ。
 私は2人の幼馴染に支えられ、そして影響されて生きてきた。それはきっと私の人生の最大の幸福だ。

「まあ無事に失恋したわけだし、私も夢に向かって頑張るかな。徹とはじめみたいに」

 いつか時間が微かに残る心を無くしてくれるだろう。こんなに好きだったんたからねと笑って言えるようになる日が、きっといつかはやってくる。

「やっぱり逞しいな」
「長年片思い拗らせてきたしね。それにふたりの幼馴染なんだから、逞しくないとやってけないよ」

 はじめの口端が少し上がる。
「ケチャップついてるよ」と指さし、慌てて拭うはじめを見て私は笑った。
 いつか、何ヶ月後か何年後か、その日がやってきた時には、殴るとは言わずともグーで小突くくらいは許してよねと思いながら、大きな口を開けてハンバーガーを頰張った。


◇  ◆  ◇


 そしてその3年後、私が再びアルゼンチンの地に降り立つことを、この時はまだ誰一人知る由もない。

(21.05.30)


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