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「牛島さん」
「ああ、どうした」

 ミーティングルームの近くにいた牛島くんを呼び止める。

「これ、この間測定した牛島さんの健康状態と運動量から考えた自宅での食事メニューの資料です。ぱっと目を通して何か質問とか、確認することありますか?」

 ホチキスで止められた資料をバインダーから取り出して牛島くんに手渡した。伏し目がちに視線を動かし、私が作った資料を目でなぞっている。
 私はアドラーズに来たばかりの頃、この人があまり得意ではなかった。理由はもちろん明確で、あの頃ずっと徹とはじめを悩ませていた張本人を前にどんな気持ちで接して良いのかわからなかったのだ。今となっては牛島若利という選手をひとりの人間として尊敬しているんだから、相手をちゃんと知るって大切なことだと思う。

「そういえば、及川は最近どうしている」
「え」

 ふいに牛島くんは問う。
 芯の通った力強い瞳に見つめられ、私は一瞬言葉につまった。牛島くんは試合に出ると威圧感を放つようなタイプの選手だけど、時々プライベートでもその鱗片が見られる時がある。
 瞳の奥にある鋭い何かは、及川徹という存在が牛島くんにとって「アルゼンチンへ渡ったただのセッター」ではないということを物語っていた。

「元気にしていると思いますよ。最近は全然連絡とれてないんで」
「そうか」
 
 日本では無名で、県外を出てしまえば及川徹なんてプレーヤー知らないと言う人ばかりだけど、徹が卒業後にアルゼンチンに渡航したことは宮城県にいたバレーボーラーたちの耳には自然と広まっていた。

「⋯⋯やっぱり気になります?」
「気になる、と言うよりもいずれは俺も海外に挑戦する予定だ。情報は多いに越したことはないと思っている」
「なるほど」

 牛島くんは淡々と答える。
 私が手渡した資料に再び目を通す牛島くんを、今度は私がジッと見つめた。飛雄くんと同じ、徹の人生を変えたであろう人物のひとり。

「牛島さんのためになるような話はもってないんですけど、んー⋯⋯はじめ⋯⋯あ、岩泉もカリフォルニアでしっかりやってるみたいですよ」
「ああ、その話はたまに父から聞く」
「そうなんですね」

 大学卒業と同時に日本を離れたはじめは今もなおカリフォルニアにいる。牛島くんのお父さんである空井崇さんに師事して、アスレチックトレーナーへの道をひた走っているのだ。徹と同じでカリフォルニアとは大きな時差があるし、はじめとも最近はあんまり連絡はとれていない。
 日本と、アメリカと、アルゼンチンと。
 始まりは同じ場所だったのに、今はもうみんなバラバラの場所。毎日顔を合わせていたのが遠い昔のように思えて、戻らない日々を私はたまにそっと振り返る。

「名字は及川たちと⋯⋯幼馴染、だったか?」
「そうです。幼馴染が日本飛び出て頑張ってるので私も負けてられないなと思います」
「そういうものか」
「少なくとも私の原動力のひとつではありますね」

 資料の確認を終えた牛島くんが私のほうを向いた。

「資料、参考になる。栄養学に関しては名字の知識を十分信頼しているから何かあった際は改めて相談させてもらう」
「あ、ありがとうございます!」

 思わず頭を下げて牛島くんを見るとゆるく口角を上げた表情が目に入った。

「じゃあ、俺は練習に向かう」
「おつかれさまです」

 広い背中を見送る。こういう時、私は努力が報われた気持ちになる。
 もちろんまだまだ学ぶべきことはたくさんあって、まだまだ向上していく必要があるとはわかっているけれど、少しだけなりたいものに近づけたような気がするのだ。
 気持ちが満たされて、私も戻ろうとした時、ポケットの中に入っているスマホが小刻みに震えた。「岩泉一」の文字を目にしてすぐ、廊下の端に寄り通話に切り替える。

「もしもし、はじめ?」
『おう。電話すんのは久しぶりだな。元気してるか?』
「うん。元気元気。突然の電話だったからびっくりしたよ」
『悪い』
「ううん。ちょうど今ね、牛島くんとはじめの話してて。あ。って言ってもはじめもアメリカで元気にやってるよってくらいなんだけど」
『まじかよ』
「で、なんかあった?」
『明日、日本帰るわ』
「え? 明日?」
『空井さんの都合でな。そんなに長くいるわけじゃねえんだけど、一応東京に泊まることになってて夜はフリーだから名前が空いてんなら会おうぜ』
「会う会う! その日仕事早めに終えられるように調整しておくよ」

 バラバラの場所にいるけど、不思議と寂しいとは思わない。遠くても目に見えない何かで繋がっている気がする。どれだけ会わなくても、これまで培ってきた関係性は簡単に薄まるものではない。
 そう思っているのはきっと私だけじゃないはずだ。

『また連絡するわ』
「はーい」
 
 電話を切って、少しだけ過去に想いを馳せる。
 うん。
 もうここに私の恋はない。あるのはあの日交わした約束と、夢だけだ。

(21.07.28)


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