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「⋯⋯アルゼンチン、ですか?」
「そう。アルゼンチンのサンフアン」
 
 飾り気のない長方形の机を挟んで、朱雀監督は爽やかな笑みを見せた。2人きりの部屋がやけに静かに感じられて、私は監督の言葉を心の中で反芻する。言われた言葉の意味は理解できているのに実感が伴わなくて、私じゃない誰かに言われた言葉みたいだ。

「もちろん断ってくれても構わない。すぐに返事が出来るものでもないと思うし、断った場合は来シーズンも名字にはうちの栄養管理を任せたいと思ってる」
「⋯⋯はい」

 アルゼンチンのサンフアン。そこにあるバレーボールチーム――つまり、徹が所属するCAサンフアンの監督、ホセ・ブランコ監督と朱雀監督は長い付き合いがあるらしい。先日、両者の間で選手の栄養管理体制の話があがった際、朱雀監督は思いついたそうだ。私をCAサンフアンの管理栄養士として契約させてみるのはどうだろうか、と。
 元より私が世界で活躍する選手やチームへの栄養管理を行えるようになりたいという希望を知っている朱雀監督の計らいなのだと思う。世界での経験を積むための。期間は来シーズン。チーム内に1人、日本出身の選手もいるから少しは安心できるかもしれないとブランコ監督は前向きに話を進める意向を示したとのことだった。
 いったい何を言われるんだろうと身構えていた私の力がすっと抜けていくのを感じて、私はただ目の前の朱雀監督の顔を見ることしかできなかった。だってそこは私の幼馴染がいる場所で、私が2年前に覚悟を決めて訪問した場所なのだから。

「もともと名字は向上心があるし、いずれは日本代表のチームにも加わりたいという意向も持っているから、今後のキャリア形成を考えたら名字にはぜひ海外での経験を蓄積してもらいたいとも思う」
「はい」
「君はまだ若い。経験も浅い。しかし、だからこそ多くのことを経験し、吸収し、そして自分自身や周りのために役立ててほしい。ただ、さっきも言ったようにこれは強制ではないから、じっくり考えて名字が納得する答えを⋯⋯」
「⋯⋯いえ」
 
 朱雀監督の言葉を遮る。悩む隙間なんてない。言葉は自然と出た。徹がいるいないは関係ない。私は、私のためにアルゼンチンへ行く。私の、夢のために。

「いえ、行きます。学びたいです。アルゼンチンで。もっともっと私は向上したいです。それでいつか、世界で活躍する選手やその周りの人たちに、名字がいれば栄養面は心配ないなって、何かアドバイスがほしいなら名字に聞こうって思ってもらえる、そんな栄養士になりたいです」

 徹は高校卒業と同時にアルゼンチンへ渡った。はじめも大学卒業と同時にアメリカへ渡った。日本を出て、世界を見て、もちろんそれだけが全てじゃない。日本で学ぶことも学べることもたくさんある。
 だけど今の私に世界を見させてもらえるチャンスがあるのなら、大きな一歩を踏み出す権利があるのなら、それはもう迷うことなく進んでいきたい。この世界の広さを私も全身全霊で感じてみたい。

「わかった。先方にはその旨伝えておこう」
「ありがとうございます」

 朱雀監督が立ち上がり部屋を出ていく。一人残されてようやく事の重大さをゆっくりと実感してきた。
 もう一度行くのだ。もう二度と行くことはないと思っていた場所。徹のいる国。徹が選んだチーム。

 私も頑張ってきたよ。知らない場所で徹が頑張ってきたように、はじめが頑張ってきたように、私も私の夢をちゃんと頑張ってきた。始まりこそ徹がきっかけだったけど、これはもう私の夢だ。徹がいてもいなくても、私が目指したい未来。いつか交わることを願って私が生きていく道。
 あの頃思ったことが今またひとつ現実になろうとしていて、まだ何も成していないというのに私は少し泣きそうになる。

 こうして朱雀監督と話し合いを交わした約1年後、私は再びアルゼンチン行きの航空券を手にすることになるのだった。


◇  ◆  ◇


 それからの時間は想像していたよりもあっという間に流れていって、そしてついにその時はやってきた。

『で、結局及川には伝えず出発か』
『どうせならサプライズってことで』
『まあそりゃあ驚くだろうな』
『驚いた時の徹の顔写真にとってはじめに送りたいくらい』
『おー待ってるわ』

 成田空港第一ターミナル南ウイング。チェックインを終え、国際線出発口の上に大きく掲げられた液晶モニターを見つめながらアメリカにいるはじめと連絡を取り合う。飛行機の発着情報が画面いっぱいに広がっていて、ここから飛び立つ飛行機の1つに私は乗ってアルゼンチンへ向かうのだ。
 こんな形でもう一度あの地へ行くことになるとは、あの頃、誰も想像していなかった。

『じゃあ、行くね』
『おう』

 あの時と同じように深呼吸をして、あの時とは違う感情を持つ。さあ行こう。今度は自分の夢を叶えるためのフライト。

 また私の長い旅路が始まる。

(21.07.31)



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