06



 驚いた徹の顔を送るってはじめに言ってたんだったと思い出したのは、その日の夜になってからだった。

 その後、ブランコ監督から選手たちへ本日より管理栄養士としてチームの一員に加わる旨を伝えられ、私は拙いスペイン語で自己紹介をした。
 練習を始めるという掛け声が響いた後でも、現状を信じられない徹はまじまじと幽霊でも見るような目つきで私に視線を送り続ける。

「名前」

 業務のために体育館を後にしようとする私を呼ぶ声。3年ぶりに顔を合わせて呼ばれた名前。
 広い体育館に響く日本語の名前は、ゆるりとアルゼンチンの空気に抱きしめられる。

「⋯⋯なに?」
「話あるから、あとで時間つくって。説明してくれないとわかんない」

 驚かせようとは思っていたけど、別に困らせたいわけでも怒らせたいわけでもない。徹の表情はその全てが混ざり合っているような気もするし、そのどれでもないような気もした。

「わかった」

 徹はコートに向かう。私は体育館を後にする。バレーボールの放物線。選手の声。靴と床が摩擦する音。
 うん。でも大丈夫。ここはちゃんと心地が良い。


◇  ◆  ◇


「で、名前がチームに加わることになった経緯説明してくんない?」

 練習が終わり外もすっかり暗くなった頃、徹は私を練習場の近くにあるレストランへ連れて行った。時刻は20時。日本の感覚で考えるとこの時間の夕食は遅いかもしれないけれど、アルゼンチンの人々にとっては「早い」に分類される。
 前回、旅行できた時は私に合わせて食事の時間を考慮してくれたけど、今度は私がそういった文化を考慮しなくてはいけないのだ。
 徹は眉を寄せて、本当のことを言うまではここから帰さないと目線で語っていた。どこから何を話せば良いのかと私も頭を悩ませる。

「んー⋯⋯私も話をもらったときはびっくりしたんだけど、アドラーズの監督とブランコ監督って元々知り合いらしくて」
「ブランコ監督、日本で監督してたしね」
「うん。でね、元々私が世界のトッププレーヤーの食事管理を出来る人間になりたいって希望してるの知ってる監督がブランコ監督に掛け合ってくれたみたいなんだよね。ワンシーズンだけでも良いから私をCAサンファンと契約してくれないかって。CAサンファンも栄養士不足じゃないけど、そういう試みも面白そうってブランコ監督は思ってくれて。まあきっかけはそんな感じで」

 ニョッキを口に運び、およそ1年前の出来事を思い出しながら徹に説明する。アルゼンチンである理由に恣意的なものは何一つなく、偶然が私をここまで運んできたこと。目指すもののために、私がしなくてはならないこと。

「こんなチャンス滅多にないし、っていうか2度とないかもしれないし。だから、徹がいるいないは関係なく来ること選んだ」

 じっと徹を見つめる。なんか、大人びたな。安心感っていうか、落ち着きっていうか。会えなかった3年間、きっとたくさんのことを経験したんだろうと想像できる顔つき。
 
「そっか」

 徹は仰ぐように上を向く。気が付けば店内は人の入りが増えて、活気の良い音がするようになった。異国の音。いつか、私もこの音に上手く混ざることが出来るのだろうか。徹がこの国に馴染んでいるように。
 ごめん。徹がどんな風に思っていようと、私は今こうして同じチームになれたのが嬉しいよ。だって「徹のするバレーを支えたい」のが私の夢の始まりだったんだから。

「⋯⋯にしてもさあ、なんで言ってくれないわけ」
「それは⋯⋯驚かせたくて?」
「しかも岩ちゃんには言ってるとか俺だけ仲間外れですか。そーですか」
「拗ね方が子供か」

 徹は気を抜いたような、とてもゆるい顔つきで笑った。

「名前は俺のこと驚かせるの上手だよね」
「え?」
「管理栄養士目指すとか、いきなりアルゼンチンくるとか」
「いやいや徹のアルゼンチンでバレーすると帰化するに勝るものはないでしょ」
「そう?」
「そうだよ」

 言えなかったのは多分、驚かせたかったからという理由だけじゃない。3年ぶりに会って自分がどんな気持ちを抱くのか想像できなかったから。もしまた徹への気持ちが呼び起されたら。それが心配で徹本人には言えなかった。
 でも、と徹を見つめる。視線に気が付いた徹が「ん?」と小首を傾げた。

「ううん」
 
 私は首を横に振る。ううん。なんでもない。もう大丈夫。目の前にいる人は好きな人ではない。私の幼馴染だ。
 今となってはそう思えるんだから、叶わなかった恋はきっともう綺麗に枯れたに違いない。

 ただ、それでも。
 それでも、ほんの少し。優しい瞳で私を見つめてくれるこの人を、もう2度と好きになることはないんだと思うと、哀愁に似た切なさがぼんやりと胸に宿るのだった。

(21.08.01)


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