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 レストランを後にして外に出れば、10月の涼しい風がサンフアンの夜を彩る。南半球にあるアルゼンチンは今まさに真夏へと向かう途中だ。
 9月半ばの残暑が厳しい時期に渡航してきた為これから私は長い夏を過ごすことになる。ただ、最も暑いとされる1月でも最低気温は20度を記録する日がほとんどだから、年間を通して日本のような熱帯夜を経験することはないだろう。

「そういえば、私の借りてる部屋、徹の住んでるところとそんなに遠くないんだよ」
「え、まじ?」

 そうするのが当たり前のように徹は「送る。住んでるところ教えて」と言った。長く伸びる道路の先を見つめながら私は教える。

「本当に近いじゃん」
「でしょ。まあこれからの季節は日中だとちょっと汗かいちゃうかもしれないけど。あっこれも本当たまたまっていうか、偶然だから!」
「わかってるって」

 通りに面した飲食店はそのほとんどのお店がオープンテラスのようになっていて、至る所から陽気な音楽が聞こえてくる。
 さすが南米というべきか、さすがラテンの国というべきか。その中にアルゼンチンの国民としての自負のようなものが隠れている気がして、賑やかなのに騒がしくないのが私は好きだと思った。

「徹はもうサンフアンで暮らすの慣れた? えっと⋯⋯7年だよね? うわ。改まるとすごいね。小学校卒業できるじゃん」
「まあね。言語はかなり上達したかな。日本食はやっぱりたまに食べたくなっちゃうけど」
「牛乳パン?」
「言われると食べたくなるじゃん。こっちのパンって日本と全然違うし、ふわふわしたパンとかもうどれだけ食べてないんだろ」
「考えてみれば徹ってアルゼンチン人なんだもんね」
「そうだけど、でもだからって何が変わるわけでもないし」
「そう?」
「言ったじゃん。俺が俺であることに変わりはないよ。どこにいても、何をしてても、国籍がどの国でも、及川徹が名前の幼馴染なのは変わらない」
「⋯⋯そっか」

 高い位置にある徹の顔。月夜を背景に見上げる。
 私がここにいられるのはクラブシーズンの間だけだから期間で言えば約半年ほどしかないけれど、それでもこの国に身を置けることを嬉しく思う。徹と共に頂を目指せることを幸せに思う。
 たとえそれが長い人生のほんの一瞬の玉響のような時間だったとしても。

「これからたくさん頑張らないとなぁ」
「俺も近くに名前がいると思うと今まで以上に気合い入りそう」

 飲食店が並ぶ通りを抜け少し道を逸れ、互いの声が誰にも邪魔をされず届くようになる。

「私さ、徹と同じチームなのすごく嬉しいんだ」
「うん」
「チームにとっては私じゃ力不足かもしれないけど、でもちゃんと頑張るから。徹とも約束したしね。夢のために努力を惜しまないって」

 今度は徹がじっと私の顔を見つめた。何か言いたそうな、でも言うには至らない、そんな迷いの籠った視線に私はつい笑ってしまう。
 徹の考えていることが手に取るようにわかったから。

「徹さ、私が前に⋯⋯前回サンフアンに来た時、好きって言ったのちょっと気にしてるでしょ」

 徹の瞳の中に映る街灯が、ゆらり、姿を揺らす。

「え、いや、えっと」
「誤魔化したって無駄だよ。わかるって。幼馴染だもん。ずっと近くにいたんだから、はじめには及ばずとも? まあ、私だって徹の考えてることまだそれなりにちゃんとわかる」
「⋯⋯俺が名前の立場だったらちょっと気にするし」

 心を少しだけ過去へ戻す。告白して。泣いて。普通に接しようと頑張っていたのは私だけじゃない。きっと徹もずっと私に気遣っていたんだと思う。

「あれはさ、もういいんだって。私が告白したことを後悔しないためにも徹には気にしてほしくないんだ。て言うかもう私は徹のこと好きじゃないし」
「そんなはっきり言う!?」
「言う。徹なんて眼中にないね。私の今の好みはワイルド系イケメンだから」
「ワイルド系イケメン⋯⋯」
「まあそれは置いといて、今は恋愛とかそういうのいらないんだよね。この仕事すごく楽しくて、いろんなこと覚えていく毎日が楽しくて、恋愛なんてしてる暇ないって思う。もっともっとスキルアップして目指す自分に近づきたい。だから今の私に恋とか愛とかはいらないんだ」

 もう一度見上げて、笑顔を向けた。
 徹以外の誰かに心を寄せる自分を想像できなかった私が、あの日決めたこと。恋することが人生の全てではない。愛を知ることが人の価値を決めるわけではない。私は夢に全振りしただけ。ただ、それだけ。
 あんな風に心を焦がすこと。長くひとりを想うこと。やっぱり徹以外に抱ける気がしない。

「だから幼馴染兼チームメイトとして、シーズン終わりまでよろしくね」

 私たちの間をふわりと抜けた風は躍るように軽やかで、綿のように柔らかかった。

(21.08.05)


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