09



 迎えた週末、夜になり暑さも静まった時間、徹が部屋まで迎えに来てくれる。

「迎えに来たよ。準備大丈夫?」
「あ、うん。ありがとう」

 雨が降ることも滅多にないこの時期は、週末を迎えた今日もからりとした空気が街を漂っていた。シエスタを終え、午後の仕事を終え、サンフアンの夜は今まさに陽気な声で染まっていることだろう。

「外って寒い? 暑い?」

 10月下旬の平均最低気温は14度前後。この時間は割と快適に過ごせる時間帯だと言われているけれど、さすがに半袖は寒いだろうかとTシャツを着ている徹に尋ねる。

「俺はちょうど良いけど、これから気温下がるし心配だったら羽織るもの持っていけば?」

 白い生地に赤くSUMESHIと書かれたTシャツをまじまじと見つめた。

「ねえ、そういうTシャツどこで買えるの?」
「ああ。これは前にベトナム行ったときに買ったやつ」
「SUMESHI⋯⋯」
「なに、羨ましい? 今度名前にも買ってきてあげようか?」
「大丈夫。後ろにすめしって書いてて日本で着るには恥ずかしい」
「岩ちゃんなんてチャンピョンじゃん!」
「はじめチャンピョンなの? え〜今度写真送ってもらお」

 持ち続けるには邪魔だし、暑くなったら脱げば良いと手に持っていた薄手の長袖のアウターを羽織る。

「待ってね、靴履く」
「そう言えば、土足じゃないんだ」
「うん。やっぱり土足で部屋の中に居るの慣れなくて。サンファン着いた日、床掃除してそれからスリッパ履くようにしてる」

 玄関先で私が靴を履くのを待つ様子に小学生の頃を思い出す。一緒に登校する朝、徹とはじめは私を迎えに来てくれて、そして私が靴紐を結ぶ様子を徹はじっと見つめていた、そんな昔のなんでもない日。

「なんか小学生の時みたい」

 思わず笑って徹を見上げると、一瞬思考を止めたような表情を見せて「確かに」とあの頃みたいな無邪気な顔をした。

「名前が蝶々結び下手だからってたまに俺が結んであげてたよね」
「え〜そうだっけ?」
「なに、忘れちゃったの?」
「覚えてないなあ」

 嘘。本当は覚えてる。徹が作った、縦に真っすぐ伸びるような不器用な結び目。あの時の私にとってはそれが完璧な蝶々結びだった。
 それを覚えてくれている。それだけで、十分嬉しい。

「さて、行こ行こ。私お腹空いちゃったよ」

 心地よい風を受けて、待ち合わせ場所のお店に向かう。街中から漂うように聞こえてくる音楽や香り。外車が走る車道。道路に並ぶソテツやシュロ。風に遊ばれるように掌状葉が揺れている。
 あの時願った、生活するようにこの街に居たかったという思いが今こうして現実になっているのを実感する。

「なんかさぁ、旅行じゃなくて仕事するためにサンフアンにいる私、なかなか凄くない?」
「え、今?」
「こういうのはゆっくりと実感するものなんです」
「⋯⋯俺は旅行で行く言って実行した時点で凄いと思ったけど、仕事で来たって知った時には負けてらんないなって思った」
「え?」
「だって名前が頑張ったからこうしてこんな日本の反対側まで来ることができたわけでしょ? まあ名前と一緒に仕事して俺のいないところで一生懸命頑張ってきたんだろうなってわかって結構嬉しかったけど、でもやっぱり俺ももっと頑張らないとなって」
「んー⋯⋯あ、切磋琢磨って感じ?」
「ああ、そうかも。名前の考えてくれる食事メニュー、選手の間でも評判良いんだよ」
「本当? 日本の調味料はこっちだと割高だから予算考えるの結構大変なんだけど、そう言ってもらえると私も嬉しいな」

 恋を諦めて、求めていた関係が目の前にある。心が満たされてゆくのを感じながら私たちは夜のサンフアンを2人で歩いた。胸を締め付けるときめきや弾むような胸騒ぎもないけれど、それでも私には十分すぎる程。

 それから数十分ほど歩いてお店の前に辿り着くと、ニコラスが外で待ってくれているのが目に入った。少し歩調を速くして手を振る。

「Hola!」
「Hola. 急だけど妹も近くにいるみたいでここに呼んでもいい? 日本から女の子来てるって言ったら友達になりたいって言ってて」
「わ、嬉しい。いいね、一緒に食べようよ」
「妹ってカサンドラ?」
「そう。トールにも久しぶりに会いたいってさ」
「徹はもう知り合いなの?」
「うん、まあ」

 一連のやり取りを終えてニコラスは妹であるカサンドラに連絡をとった。スマホを操作するニコラスの隣で、徹がカサンドラは私たちの一つ下の年齢ということを教えてくれる。

 そしてこの出会いこそが私と徹、ひいてはニコラスとカサンドラ、それぞれの関係性を変えてゆくことになるのである。

(21.08.09)


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