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 背もたれに体重を預けながら大きなあくびをした瞬間、ニコラスと目が合った。口元を手で覆っていたとは言え、無防備な姿を見られてしまったことに羞恥心が込み上げる。
 昼休憩が終わるまで残り1時間。コーヒーを片手にニコラスはそっと私の隣席に座った。

「寝不足? ナマエがあくびするのって珍しい」
「昨日ちょっと徹夜で資料まとめてて。恥ずかしいところ見られちゃったな」
「生理現象なんだから仕方ないよ」
「フォローありがと」

 隣でコーヒーを口に運ぶニコラスに倣うように、スマホをテーブルに置いて私もコーヒーで喉を潤す。気を引き締める苦味。鼻を抜ける香りが、眠気を無理やり奥底に押しやる。

「最近はどう?」
「最近? うん、来たときよりもこの街に馴染めてきて楽しいよ」
「それなら良かった。ナマエの考案するメニューは俺たち選手の間でも評判良いけど、業務上で何か困ったことはある?」

 彫りの深い、しかし柔らかい印象を持つニコラスの顔をまじまじと見つめる。ニコラスは普段から私を気にかけてくれる節があったけれど、今日はいつもよりも一層顕著な気がした。
 そんな私の疑問を汲み取ったのか、ニコラスは軽快に笑いながら言う。

「実はトールから言われてるんだよね」
「え?」
「慣れない海外生活で大変なことたくさんあるから出来るだけ気にかけてほしいって。自分がそばにいられない時は代わりになってほしいって」

 思わず目を見開く。徹がニコラスにそんなことを頼んでいたなんて。
 海外で暮らすことの大変さを身を持って学んだからこそ、徹は私のことをそんな風に気にかけるんだろう。どれだけ私が一人でしっかり頑張っているとアピールしたとしても、徹にとってはまだまだひよっこに思えるのかもしれない。
 心配されてばかりの自分が悔しいけれど、それでもその心配の仕方が徹らしくて、マッチに火をつけたような、頼りなくも柔らかい温かさが胸に灯る。

「気にしてくれてありがとう。仕事も生活も今のところちゃんと順調だから大丈夫」

 私は徹の優しさに見合うだけの何かをちゃんと返せているのだろうか。

「あとカサンドラもナマエのこと気にしていたよ」

 突如挙がった名前に思わずコーヒーを咽込みそうになる。時々連絡を取っているけれど、まさかカサンドラにまで心配されてるなんて夢にも思っていなかった。

「カサンドラが?」
「うん、日本とは全然違う国なのに一人で大丈夫かって」
「⋯⋯みんな優しいよね。なんか情けないくらい心配してもらってるな」

 私はそんなにも頼りなく見えるのかと項垂れれば、私の心情を察したニコラスは言う。

「周りからそう思ってもらえるのもナマエの魅力の一つなんじゃないかな」
「魅力?」
「例えばリーダーの素質だったり、人を惹きつけるオーラがあったり。人の持つ特性はそれぞれだけど、ナマエのそれは情けないんじゃなくて、周りが気にしたくなる雰囲気なんじゃないかなと思うよ。手を差し伸べたくなる感じ」

 こういう時、自分の視野の狭さと思慮の浅さを感じる。そうか、そんな風にポジティブに考えることも出来るのかと、目から鱗が落ちたその勢いで、私はつい口走ってしまった。

「⋯⋯カサンドラって徹のこと、好きだったりするのかな?」

 これまでの話とは全く関連ない問いかけにニコラスは少しだけ驚いたような表情を見せた。間を置くように呼吸を繰り返して「どうだろう」と、ニコラスは穏やかな声で言う。

「付き合ってはいないけど、カサンドラはそれなりにトールのこと気に入ってるんじゃないかな。トールのほうがどう思ってるかはわからないけれど」

 その答えに納得すると同時に、少しだけ。ほんの少しだけ。多分、1ミリくらい、やっぱり聞かなければよかったと思ってしまった。すぐさまその感情に蓋をして笑顔を作る。

「ほら、この前会った時の2人、親しそうだったから。カサンドラも徹に送ってもらうこと頼んだし、もしかしたらそうなのかなって思って」

 まるで言い訳をするみたいに言葉がすらすらと出てくる。もうこの話題には終わりにしといたほうが良い。そう頭では理解しているのに、口が勝手に開く。

「私、徹には幸せになってほしいんだ。徹の幸せを願ってくれる人が徹のそばにいてほしいなって。カサンドラとはまだそんなに親しいわけじゃないけれど、いい子だなっていうのわかるから、カサンドラが徹のこと大好きになって、徹も同じ気持ちで、それでいつか2人が結ばれる時があったら、徹のこととびっきり幸せにしてほしいなって思う」

 本音だ。でも虚勢もあった。そんな日が来たとして、私はまだ全力で祝いの言葉を述べる自信がない。逸らしたり、上を向いたり、私はその光景をずっと見ることは出来ないだろう。
 20年近くの月日を費やした恋だ。微かに残った何かが、時々自分でも嫌って思うくらい厄介な形で私の心に鎮座する。これじゃあ、何も成長していないと同じなのに。

「ナマエはトールが大好きなんだね」

 ニコラスの言葉に私は何も言えなかった。はいもいいえも、首をゆるく動かすことでさえも。
 ただ呼吸を。
 呼吸を、ゆっくりと繰り返すしかできなかった。

(21.10.11)


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