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 ニコラスとそんな会話をしたその日の練習終わり、私は徹に声をかけられて帰路を共にした。
 もう十分すぎるほど夏の空気が夜の街を満たす中、涼やかな風に背中を押される。終業後の解放感と、明日への期待感。デコボコのアスファルトの感触が靴を通して伝わってくる心地良さ。

「今日のお昼にニコラスと話してたんだけどね」
「うん」
「ありがとう」
「えっ何。何に対して!?」
「ニコラスに言ったんだってね。私のこと出来るだけ気にかけてやってほしいって」

 昼間、ニコラスに教えてもらったことを思い出しながら言う。私から言われた突然の感謝と、私が事実を知ってしまったことに徹は決まりが悪そうにうなだれる。私に合わせてくれる歩調はさらに速度を緩められて、私の踏み出す一歩も随分とゆとりのある一歩になった。

「あー⋯⋯」

 と、溜息と思える悩まし気な声の理由をなんとなく想像出来るから、私は失礼ながらも気づかれないように少しだけ笑った。

「くっそー⋯⋯名前には言わないでって言ったんだけどな」
「私は知れて嬉しかったけどね」
「これ以上俺からあれこれ心配されてもウザがられそうだし、ニコラスに言ったんだけど」
「うん、だろうなーって思った。徹から見たら私って多分まだまだひよっこで、心配の対象かもしれないけど、でも私、少しくらいなら無理したいとも思うんだよね。本当、千載一遇のチャンスっていうか⋯⋯こんな機会って誰にでも巡ってくるわけじゃないだろうし」

 月が浮かぶ空はとても落ち着いていて、この世の全てが飲み込まれる日が来るとしたら、きっとこんな静かな夜なんじゃないかなと思う。
 砂利が地面をすべる音。遠くで聞こえてきたバイクの重低音。風に乗って届く細やかな音たちだけがこの夜を動かしている。

「だから今のうちに色んなことやっておきたいんだ。それがこの先ずっと後悔しない生き方だと思うから。今が私の我を張る時なのかなって」

 隣で徹が息を飲んだような気がした。一瞬触れた肩が優しく熱を残す。

「なんか⋯⋯ごめん」
「え〜、なに? 最近の徹、謝ってばっかりじゃない?」

 笑ってそう指摘すれば、とても落ち着いた声色で徹が言う。

「俺は多分、今でも心のどこかで名前のことをか弱い存在だと思ってたんだろうなって」
「いいよ、徹の気持ちもわかるし。比べるものじゃないけど、やっぱり徹のほうがアルゼンチンのことわかってるし、私よりもたくさん苦労しただろうし」

 でも大丈夫なんだよ、と私は心の中で言った。靴紐も上手に結べる。オムライスも美味しく作れる。一人で恋愛映画を見に行くことも、日本からアルゼンチンまで行くことも出来るんだから。なかなか逞しいと自分では思うんだけどな。

「でも、一つだけ約束してほしい」
「約束?」
「これから先、何か困ったことがあったり悩んだりした時は必ず相談して。絶対に一人で抱え込まないでほしい。名前がアルゼンチンに居ても、日本に帰国しても、俺はどんな時も名前の味方でいるし、困ったときは駆けつけるから」

 真っ直ぐに向けられた瞳が眩しい。混みあがる感情を制するのが精一杯で頷けない。
 私、日本代表の管理栄養士に選ばれることを目指してるんだよ。徹のライバルを支えるんだよ。敵対するんだよ。日本に帰国したら簡単に会えないし、駆けつけるまでに何十時間もかかるんだよ。そんなこと絶対徹もわかってるはずなのに、どうしてそんな迷いのない瞳で言っちゃうかな。
 
「⋯⋯うん」

 かろうじて紡いだ言葉は夏の風にさらわれてしまいそうなほど小さい。
 絶対に心が揺さぶられてはいけないから私は決意する。だからこそ、徹と敵対してでも私は日本代表チームの一員になろうと。それこそが徹の優しさに応えられる唯一の方法だと思った。

「⋯⋯それに私にははじめもいるしね」
「それはそうだけど、今めちゃくちゃかっこいいこと言った俺の前で岩ちゃんの名前出す!?」
「だすよ。はじめも徹と同じで私にとっては大切な幼馴染だもん。私には2人も強い味方がいるんだと思うと俄然強くいられる気がするし」

 そう思ったことを悟られないようにと私は平然を装う。今まで築き上げたものと変わらない空気感を出すように意識すれば、それは滑らかに色を変える。まるで高校生時代の帰り道のような。
 うん。これで良い。私たちはこれくらいの距離がちょうど良いのだ。

(21.10.12)


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