とても小さなガラス片が指先に刺さったように、昨日、徹から言われた言葉はじわりと私の中に残ったままだった。出来るだけ気にしないように、そしてその言葉の意味を深く考えないように仕事をこなす。
今日の練習は午前のみ。明日、近隣の市で試合があるため午後からは全体ミーティングの予定だ。
「ずいぶん根詰めて集中してるね。眉間に皺寄っちゃってるよ」
お昼ご飯を食べ終えたニコラスがいつもそうするように私の隣に腰を落とした。指摘されて、自分がどれほどパソコンの画面を熱心に見つめていたか理解する。仰ぐように腰を反らせば凝り固まった身体が少しだけほぐれた気がした。
「あー⋯⋯ニコラスに声かけられなかったら眉間の皺がもっと酷いことになってた気がする」
「それなら声をかけて正解だったかな。何か手伝えそうなことある?」
「ううん。やろうと思ってたところまではいけたから大丈夫」
仕事に集中しているときは他の余計なことを考えなくていい。腰、肩、目は確かに疲れるけれど、結論の出ない問題で悩み続けるよりは全然良い。
「今日は徹と一緒じゃないんだ?」
「トールは他のやつらと話してる」
「そっか」
空のコーヒーカップを弄ぶように触れると、刺さったガラス片が存在を現した。
「⋯⋯昨日徹に言われたんだよね。あんまりスキ見せちゃだめだよって。なんて言うか、こう、意味ありげに」
「隙?」
「そう。一日考えてもよくわからなくて。別に私、隙なんて見せてないし」
声のトーンだけじゃなく口をとがらせて募った不満を表現する。私はあの時徹に言われたくないと思ったし、そう思ってしまった自分にも不満だった。
私は誰にでも尻尾を振るような女に思われているのか、それとも徹は本当に私とニコラスとのことを疑っているのか。
「トールは気になるんだよ」
そんな私とは対照的に、ニコラスは穏やかな空気を纏いながら言う。
「なにを?」
「僕とナマエのこと」
「⋯⋯付き合ってるんじゃないかとか?」
「そうじゃなくても実はお互いに気があるんじゃないか、とか」
「まさか。それにそのことなら私ちゃんと否定したし」
それにもし実際にそうだったとして、徹が気に掛ける理由がわからない。いい大人なんだから誰に相談せずとも人を好きになることくらい出来る。徹が世話を焼くほど、私はもう子供じゃない。
「それに僕も言われたよ、トールに」
しばしの沈黙に迷いを見せたニコラスは、だけど、私の目を見て言った。その空気感は変わらないのに、凹凸のある顔の作りが私の後ろにある細い逃げ道をふさいでいるような気になる。
「もし僕にその気があるならナマエのことは大切にしてほしい。中途半端な気持ちで手を出すことはしないでほしいって」
私を襲う、言葉では表現できない衝撃。嬉しい悲しい腹立たしい。どれも正解であり不正解だった。
徹はいつそんなことを言ったんだろうか。どんな気持ちでそれを言ったんだろうか。考えても考えても、やっぱり私には徹の真意がわからない。
「な⋯⋯にそれ。あはは、ごめんね。誤解されたままだとニコラスも困るし、徹には改めてちゃんと私から言っておく」
見えない隙間を埋めるように、言いようのない感情に蓋をするように努めて明るく振舞った。
「僕は構わないけど」
「え」
「ナマエはいい子だし教養もあるし、それに度胸もある。まあだけどトールに釘を刺されちゃったからね。よき相談者に徹するよ」
一瞬全てを忘れて動揺してしまったけれど、ニコラスの楽しそうな笑顔にうまく転がされたことを悟る。
徹の言う隙って、こういう警戒心のなさというか、油断というか、ちょろさなのかな……と、なんとなく言わんとすることを理解した。徹からするとやっぱりまだどこかに危なさを感じるのだろう。
「それに、ほら」
顔を近づけたニコラスが内緒話をするときのように小さな声で耳打ちするから、顔を近づけてその小さな声を聞き逃さないようにと集中した。
「トールがあっちから僕たちのこと見てる」
そっと視線だけをニコラスがいう方向へ向ける。大柄の男たちの中に一人だけいる、私の幼馴染。背格好は他の誰とも劣らないはずなのに、私にはどうしてか徹だけが浮いているように見える。悪い意味ではなくて休日の大型ショッピングモールではぐれても私だけはすぐに見つけることができる、そんな浮き方。
目があってしまう前に視線をそらして、私もニコラスがそうしたように小声で返答した。この距離ならばそうする必要は一ミリもないのに、そうするのが必然のように思っていたのだ。
「あれは多分私たちの関係性が気になってるんじゃなくて、仲間外れにしないでの視線だね。多分、徹こっちくるよ」
私が予想してすぐに徹はこちら向かってきた。ほらね、と内心得意げになったことをきっとニコラスだけは気が付いていたと思う。
(21.10.26)