その日が近づくにつれ、チーム内でも雰囲気が浮足立つものに変わってゆくのがどことなく微笑ましかった。普段は厳格な副監督も24日の夜は意気揚々として帰宅したし「良いホリデーを!」と言った音のトーンはいつもよりオクターブ高かったような気がする。
そしてやってきた25日。去年の今頃は厚手のコートに包まれて身を震わせていたのに、今年は朝から日焼け止めを塗っているんだから変な感じだ。いつものように迎えに来てくれた徹と街に繰り出すと市内はクリスマスを満喫する人々で溢れていた。
「行きたいところある?」
「うーん⋯⋯」
今日に至るまでにこの日をどう過ごそうか考えていたけれど結局結論はでないままだった。あてもなく、だけど無意識に中心部のほうへ歩みを進めていることにも気が付かず、いつもよりもゆっくりと足を前へ出す。
「そういえば高校生の頃、クリスマス一緒に映画観に行ったよね。名前、覚えてる?」
思わず歩みを止めて徹を見上げる。近くにある噴水に太陽の光が反射して視界の端で弾けた。肌を撫でるような、不快感を伴わない暑さが目近に迫っていてぐっと私の感情を押し上げる。
「覚えてるけど、むしろ徹は忘れてると思ってた。びっくり」
「俺そんなに記憶力悪いと思われてんの?」
「だって」
だって、徹にとっては感情が揺さぶられる日ではなかっただろうから。
「あーここが日本だったら映画とか観に行こうってなるんだけどなー⋯⋯やっぱり無難に買い物? 名前が言ってた通りいつもと同じになっちゃうかも、ごめん」
「や、それは、全然、問題ないっていうか」
大切な思い出はたくさんある。大人になればなるほどそれは増えていって、だけどその分、奥底に押しやられたものもあるだろう。徹にとってあの日はそういう類のものだと思っていた。好きな人とクリスマスに映画へ行けることを健気に喜んでいた私だけがあの思い出を大切に持っているのだと。
「⋯⋯むしろ、いつも通りでいい」
「え?」
「クリスマス、一人で過ごすなんて別に寂しくないし何も感じないって思ってたけど、でも、今こうして徹と一緒にいるのは楽しいから、一緒に過ごすことを選んでくれてありがとう」
じっと何かを考えるような瞳で徹は私を見る。最近、稀にこんな風に視線を向けられることがあるけれど、その時に徹が何を考えているのか私は全くわからない。
「ねえ、それ⋯⋯最近、そんな風に見てくるけど、もしかして私に何か言いたい事でもある?」
「あー⋯⋯いや、ごめん。多分、無意識」
「それとも体調すぐれないとか?」
「そんなんじゃないって全然。ごめん、本当なんでもないから気にしないで」
場を仕切りなおすように徹は明るい声を出す。
ひっかかりは感じたけれど、徹が口にしないと決めたなら私もこれ以上踏み込むことはないとその話題について深く掘り下げることはしなかった。
◇ ◆ ◇
結局クリスマスだからと言って特別な何かをするわけでもなくいつも通りにカフェへ行き、モールで食材を買うことで落ち着いた。
どうせなら逆に日本ぽいものを食べようと鍋の具材を買って部屋に戻ったけれど、あえて意識しないとクリスマスだということすら忘れてしまいそうだと秘かに思う。
「鍋の用意、手伝う?」
「お願いします」
「オッケー、任せて」
「包丁で怪我しないでね」
「子供じゃないんだから」
とても穏やかな生活音が部屋を満たす。野菜を切る一定のリズム。水からお湯へ変化してゆく水面の気泡。冷房器具の無機質な音と混ざり合って、完成された空間だと勘違いさえしそうになる。
「⋯⋯最近、ニコラスとはどう?」
そんな空気が流れる部屋で徹が口にした突拍子もない話題に、手からニンジンが滑り落ちかけた。そっと横顔を盗み見ても、その表情から読み取れるものはない。
あえて私と目を合わさないようにしているのか、それとも鍋が沸騰したら困るから視線をそらせないのか。わからなかったけれど、徹が前から気にしている様子の疑惑は今日、絶対に払拭しようと決意して口を開く
「そのことなんだけど――」
「あとは、他のチームメイトのやつとか」
「え?」
遮るように重なる徹の言葉。
「名前の評判良いんだよね。俺、たまに聞かれるし。日本に彼氏いるのかって」
「あ⋯⋯えっと、モテ期でもきたのかな? あはは、悪い気分はしないけどもっとバランス良くモテたいよねー⋯⋯」
一つかけ間違えると総崩れしてしまいそうな何かを悟って、私は明るく言った。それが正解だったのかはわからない。だって、ようやく私に顔を向けた徹の表情がどこか辛そうだったから。
「名前が好きなのは俺でしょ?」
今になってそんなことを口にする徹の気持ちを私はもう全然、理解できない。あの頃よりもずっとずっと、私は徹のことを知らない。
煮えたぎる音が耳に届いても、火力が下がることはなかった。
(21.10.28)