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 そうして私と徹の関係が変化することもないまま年は明け、さらには正月休みを堪能する間もなくチームの練習は再開した。週明けにある試合に向けて選手たちを始め、チームの皆はコンディションを整えるべく日々の練習に勤しんでいる。
 アメリカにいるはじめから電話がかかってきたのはそんな折だった。

『名前、久しぶりだな。元気にしてるか?』

 1日を終え帰宅した後すぐに音を鳴らすスマホ。疲労を背負いながら画面を見るとそこには「岩泉一」の文字。驚きつつもそれまでの疲れを一瞬にして忘れ、私はすぐにスマホを耳にあてた。

「はじめ! 久しぶりだね。電話なんて驚いたよ」
『おう。最近全然連絡も取れてなかったからな。近況報告も兼ねて電話した』

 スマホ越しに聞こえる声。電話から聞こえてくる相手の声は本物の声ではないけれど、それでも私はデータをベースに合成されたこの音に安心感を覚える。
 カリフォルニアとの時差は4時間。たったそれだけなのに北半球にあるアメリカの季節は冬。東京よりも平均気温は高いとはいえ、それでも今頃はじめは寒い季節の中に居ると思うと不思議な気分になった。

「ちょうど帰ってきた時だったから良かった」
『遅くねぇ?』
「アルゼンチンって夜ご飯遅いからだいたいこれくらいになっちゃうんだよね。こういうものだと思って過ごしてるけど、身体には馴染まないまま終わりそう」
『まあ半年の渡航なんてそんなもんだろ。それより夜遅いと物騒だから気を付けろよ』
「うん。チームの練習場からそんなに遠くはないんだけど、遅い日は誰かに送ってもらってる」

 ベッドに深く腰掛け、その優しさに身を委ねるように耳を傾ける。この流れで今、徹とちょっと気まずい感じになっちゃってるんだよねと笑いながら言えば、はじめはどんな反応を示すだろう。

「はじめは最近どう? 順調?」
『言語の面で苦労するときはまだあっけど、周りに助けられながら勉強させてもらってるって感じだな』
「わかる。私もそんな感じ」
『及川とはどうだ。うまくやってるか?』

 その名前を耳にして一瞬言葉に詰まる。徹とのことは避けては通れない話題だ。はじめが振らなければ私から言おうと思ってた。覚悟の決まっていないタイミング。不自然に話題をそらすのもおかしいし、だからと言ってごまかすのも違う気がするし、私は正直にここ最近の徹との関係について話した。
 話し終えてすぐ電話の向こうではじめのため息が聞こえたから、私も思わず同じように深く息を吐きだしそうになる。

「情けないよね、私。未練がましいっていうか。まあもうあの頃とは違うし、自分でどうにかしたいとは思ってる。どっちにしろ3月になればこっちを発つし、徹と会うことも滅多になくなるから時間が解決してくれる部分もあるだろうし」
『いや、及川も及川だろ』
「そんなことない⋯⋯って言いたいけど、はじめは私の味方してくれる気がしたから、そう言ってもらえるのはちょっと嬉しい」

 しばしの沈黙。だけどそれはどこか心地よくて、私の心を落ち着かせてくれる。

『俺がそこにいたらぶん殴ってたな。いや、次会ったらぶん殴るかもしれねぇ』
「じゃあ徹には、はじめに気をつけてねって言っておかないと」
『それでガードされたら意味ねぇべ』
「あはは。徹びっくりするね。びっくりどころじゃないか」

 わかってる。ちゃんと理解してる。はじめは本気でそんなことを言っているわけじゃない。はじめが徹に対面しても本当に殴ることはないだろう。ただちょっと凄んだ声で徹を見て、その名前を呼ぶくらいだ。

「⋯⋯はじめには助けられてばっかりだな」
『あ?』
「徹のことで何かあったら、だいたいはじめに救われてるし」
『こんなの特別なことじゃねぇだろ』
「うん。でもそれを当たり前としてくれてるはじめに感謝してる」

 はじめがいてくれて良かったと私はこれまで何度思っただろう。これから何度思うのだろう。徹だけじゃない。私は大切な幼馴染の優しさにどうしたら応えられるのだろう。

『名前』

 はじめが名前を呼ぶ。
 ニコラスに名前を呼ばれた時のように、そっと背中に手のひらをあてられた気持ちになる。優しい声。優しい人。何故か泣きたくなった。多分、はじめにはそういう力があるのだ。私を泣かせてくれる力。
 だけどもちろんこんなところで泣くわけにもいかないし、泣いてしまえばはじめを困らせてしまうし、私は強く奥歯を噛み締めて耐えた。その優しさに甘えるなと言い聞かせながら。

『辛いときはいつでも連絡してきて良いんだからな』
「うん」
『及川の愚痴ならいつでも聞いてやる』
「うん」
『そんで、殴りにいってやる』
「⋯⋯うん」

 相変わらず徹の考えていることはわからない。自分の気持ちさえ足元がふらふらしている。だけどこの優しさの前では、そんなの人生において微々たるものだと思えるのだった。

(21.10.31)


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