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 2月中旬。帰国まで残り1ヶ月弱を切って、カサンドラに言われた言葉はあの日から強烈に頭の中にこびり付いていた。そんな私の状況も知らずいつもの如く隣に徹が並ぶ帰り道。

「今日の試合、徹、本調子じゃなかったね」
「⋯⋯ばれてた?」
「わかるよ。でも結果的に勝ったし、全体を通してみたら悪いって程でもないし。まあちょっとだけいつもと違うなぁくらいだから大丈夫だと思うけど」
「ちぇ。やっぱり名前の目は誤魔化せないか」

 私はそれでも、出来る限りカサンドラの言葉を思い返さないように過ごしてきた。カサンドラを疑っているわけではないし、女の勘が侮れないのもわかっている。
 ただ、もうしそうだったら。もしも本当に徹が私に好意を寄せているのだとしたら、私は徹とどのように向き合ったら良いのかわからない。だから、自分自身のためにもそれは違うと思っていたかった。

「名前はすっかりCAサンフアンの一員だね」
「まあ5ヶ月近く在籍したしね。それももう1ヶ月くらいで終わっちゃうけど」
「⋯⋯早いもんだね」
「うん。私もそう思う」

 例えばこの先誰かに、日本以外で思い入れのある国はありますかと聞かれたら真っ先にアルゼンチンと答えるだろう。
 この場所からみた星空を、広大な大地を、荘厳な岩肌や芳醇なブドウの香りを。五感に訴えるものと共に、ここで出来た友人と幼馴染のことを。
 3月下旬になれば私はここを去る。そうすればこんな風に徹と夜の道を歩くことはなくなる。今まで通りに戻るだけなのに、言葉にできない大きな喪失感。高校三年の春、新幹線に乗り込んだ徹を見送ったときはこんな気持ちを覚えなかったはずなのに。今度は私が見送られる側だからだろうか。
 だってもう絶対に今度こそ、こんな風にアルゼンチンに来ることはない。100%とは言い切れないけど、限りなく100に近いのはわかる。

「もうここで大丈夫だよ。すぐそこだからあとは一人で帰れる」
「そう?」
「うん。今日も送ってくれてありがとう」

 私が立ち止まれば、私の歩幅に合わせて歩いてくれていた徹の足も止まる。2歩分先まで歩いていた徹が振り返り、自然と向かい合う形になった。
 緩く吹く風は向かい風だったけれど、目の前に立っている徹のおかげでせき止められ、毛先だけが小さく踊る。
 見つめあった時間は多分、1秒に満たないくらい。だけど一瞬交わった視線の中で徹は気づく。

「あれ⋯⋯名前、頬っぺた怪我してる?」
「ああ、うん。さっき仕事中に爪で引っ搔いちゃったんだよね」
「痛い?」
「ヒリヒリするけど血が出たわけじゃないから」

 指摘された場所に軽く手を当て就業中の出来事を思い出す。不注意とも呼べない、単なる私の無意識が招いた傷。多分、もっとも痛いのは化粧を落とす時だ。
 徹は言葉もないまま私を見つめ、そのままにじり寄り一歩分の距離をつめた。私の顔のパーツひとつひとつを念入りに確認するように、徹の眼差しは動く。こんなにまじまじと見つめられているのに熱っぽい何かはなくて、ただ淡々と観察していると言ったほうが正しい。
 いくら夜でもほんのり居心地の悪さと恥ずかしさを感じて眉間に皺が寄る。「徹」とその名前を呼ぶ前に伸びてきた手のひらが私の頬に触れた。
 か細い傷のある部分に、大きくて温かい手のひらが添えられたのだ。そこに躊躇うものはないように思えた。

「え、な、なに」
「⋯⋯名前、綺麗になったよね」

 思わず耳を疑う。手を振り払うこともせず私もまた、徹を見つめるしかできない。カサンドラの言葉が蘇る。反芻するように頭の中でこだまする。
 この指先に乗せられた色を、その言葉に込められた意味をいくら考えても頭の中はどんどん靄がかかったように霞みゆくだけだった。自分が今、正しく呼吸をしているのかさえわからない。
 意識して短く息を吐くと、頬を滑るように指先が少しだけ動いた。面映ゆさが身体中に広がって、私は衝動的に徹から距離を取る。
 ダメ。
 何がダメと具体的には言えないけれどそれはダメだと私の本能が告げたのだ。

「そ、そういうの良くないと思う」
「え? あ⋯⋯」 

 我に返ったのは徹も同じで、空を彷徨うように挙がったままの腕を慌てて引っ込めた。揺れた瞳に隠された感情を私は正面から受け止めきれない。
 何を思って私の名前を呼び、何を思って私に触れたの。そう尋ねることでさえ困難だ。

「俺――」
「私は」

 徹が何かを言う前に遮る。

「優しくしないでって言った。だから、こんな風に動揺させないでほしい」

 徹は謝らなかった。視界の端で、徹が強く握りこぶしをつくる。何かを耐えるように、その表情は苦悩に満ちていたように思えた。

(21.11.02)


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