私を翻弄する徹の言葉の数々は心臓の奥深い部分に沈下している。不必要に姿を現すことはないそれらを、ふとした時に思い出しては、時々らしくない感情に見舞われる。
徹は極めて普段通りに振舞おうとしているけれど私から見れば普段と違うのは明白だった。多分、言葉も態度も仕草も私のことを意識しながら選んでいる。私との距離感がこれ以上拗れない様にするための意識を。徹が必死に関係性を修正しようとしているのがわかるからこそ、私は自分がどうするべきかわからなかった。
いや、違うな。わかってる。私も同じように振舞えば良いのだ。同じように修正するための努力をすれば良い。わかっているのに出来ないのは、徹の言葉の真意を、もっと深い場所にある本心を知りたいと心のどこかで望んでいるから。
「今日はいつにも増して深刻そうな溜息だね」
「ニコラス⋯⋯」
いつものようにコーヒーを片手にニコラスはやってきた。キーボードに手を置いたまま一向に動き出さない指先。観念してノートパソコンを閉じ、私もカフェラテを一気に喉へ流す。
「仕事で行き詰った? それともトール?」
ニコラスの中で私の悩みは仕事か徹しかないのだろうかと思ったけれど、大体あっているので何も言い返せない。
小さい声で「⋯⋯徹」と呟けば、ニコラスは腰を据えるようにテーブルに体重をかけて顔の前で指を組む。この構図もずいぶん当たり前になったなと思いながら口を開いた。
「⋯⋯徹って私のこと、どう思ってるのかな」
尋ねるというよりも独り言に近かった。こんなことを誰かに聞くなんて思ってもいなかったけれど、カサンドラに言われた言葉も相まってつい口にしてしまう。案の定、ニコラスは驚いた表情を見せた。
「えっと、この前カサンドラと会ったときに徹は私のことが好きだと思うって言われて」
「ああ。そうか。なるほどね」
「カサンドラの言い方がやけに説得力があって。一瞬納得しそうになったし、それっぽい雰囲気もなかったわけじゃないけど、でも相手が徹だからこそかな。やっぱり簡単にはそんな風に思えなくて」
「徹だから、思えない?」
「うん。前にニコラスから言われたことも忘れてるわけじゃないし、意味もちゃんと理解してる。⋯⋯自分に都合良く考えるには徹と距離が近すぎるんだと思う。ただ、最近の徹が何を考えてるか全然わからなくて」
例えばこういうことがあって、と私は最近徹との間に起こった出来事をかい摘んで説明した。聞き終わったニコラスは一息ついて背もたれに体重を預ける。しばしの沈黙。瞼を下すニコラスは考えを巡らせているのだろう。私のこぼした言葉たちへの返答を。
「⋯⋯これは僕の個人的な意見だけど」
「うん」
そう前置きを言ってから私を見つめる。
「僕もトールはナマエのこと好きだと思う。だけど一度ナマエの気持ちを断っている分、今度は自分が好意を持つことを狡いと思っていそうだし、そのことに戸惑っている気もする」
カサンドラのみならずニコラスにそういわれてもなお、私は心のどこかでそれはないと思っていた。だって、これまでの私達なら考えられなかった雰囲気や出来事があったからと言ってそれが「好き」に直結するとは限らない。
「トールに好意を持たれていること、ナマエは嬉しくない?」
嬉しいか嬉しくないかで言えば嬉しい。
嬉しい、けど。
「⋯⋯わからない」
振り回されたくないと思う。夢だけを追っていたいと。
でも徹の幸せを誰よりも願いたい。
「私は、叶うのなら徹の本心に触れたい。一度で良いから、奥深くにある徹がひたむきに守ってきたものに触れたい」
私は徹が弱音を吐きだせる相手じゃなかったと思う。憤りや自己嫌悪をぶつける相手はいつもはじめだった。それははじめの器の大きさもあっただろうし、徹が私に対しては格好良い存在でありたいと願っている節もあったからだと思う。いろんな日々を過ごしてきた。もちろん喧嘩もしたし、泣き顔を見られたことも見たことも。どんなことで悩んできたのかも知っているけれど、徹は私に弱さを見せたことはなかった。だから私は願って、自分自身に問い続けていたんだと思う。
コートの向こう側。高い高い天井。目の前に迫るボール。息をするのも忘れるんじゃないかと思える空間。その景色が広がる世界は、徹にとって心地のよいものだろうか。それとも歯痒いものだろうか。その場所に立ち続けることは辛くないだろうか。挑み続ける徹に私がしてあげられることは一体なんだったんだろうか。
それだけが、私が完全に大人になりきれない理由。
「弱さも葛藤も全部受け入れたい。徹を支える人間の一人になりたい。そこに私への好意があったら、まあ、それはそれでちょっとだけ嬉しいかな」
「ナマエはトールを愛しているんだね」
愛。
ニコラスの放った言葉に目を見開く。愛なんてそんな大層なものじゃない。
「私を動かすのはそんな凄い感情じゃないよ。多分、もっと自分勝手」
見栄も意地もなにもない裸のままの心に、一度だけでも良いから触れたかった。それは愛なんて尊いものではなく、私のわがままなのだ。
(21.11.02)