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「名前の考案するメニューを食べれられるのも残り1ヶ月か」

 徹の口から明確に終わりを意識する言葉を聞いたのは初めてだったから私は内心驚いた。その感情を表面に出さないようにして帰国後の自分を想像してみる。

「栄養学の相談なら帰国後もいつでも受け付けてますので」
「それ、ライバルに言っちゃっていいの?」
「徹がここだけの話にしてくれるなら」

 深く息を吐きだしながら、緩やかに季節が変わろうとしているこの国を想う。真夏を過ぎ、これからこの国は秋へと向かってゆく。あちらこちらに見える夏の名残を感じながらそれでもサンフアンの街は秋の装いへ姿を変えるのだ。春を迎えようとする日本とは正反対に。

「⋯⋯ここは、これからどんどん寒い季節になっていくんだね」
「そういえば、名前が最初に来たときは冬だったよね」
「うん。結構寒くて驚いたし季節が真逆なのは今でも不思議な気分。半袖のサンタは特に」

 長かったアルゼンチン生活にもあと少しで終止符を打つ。ニコラスと交わした先日の会話を思い出して、私はそっと徹を見つめた。
 今はこうして一緒に帰り道を共にしているけれど、巡ってくる秋に私はもういない。冬も春も、そして再び訪れる夏も、私の隣に徹はいない。今まではそれが普通のことだったのに、ここで過ごした日々が私に寂寞を運ぶ。

「⋯⋯名前、悩み事?」
「え?」
「眉間に皺寄ってるから」
「悩み事っていうか、考え事っていうか⋯⋯ごめんね、何でもないから気にしないで」

 見栄も意地もなにもない裸のままの心に触れたいと願っておきながらそのための方法は今も何一つ思い浮かばない。徹、とその名前を呼べば優しい面持ちで私を見つめてくれるのに、私はいつの間にこんな憶病になってしまったんだろう。

「人にぶつかったりしないでよ?」
「ないない。大丈夫。さすがにそんな気を抜いてないし」

 立ち止まって言う徹に私は笑みを返した。つま先に小石がぶつかって転がってゆくのを見つめる。アスファルトのひび割れした箇所に収まったそれを、追いかけるように私は足を前に出す。
 その瞬間だった。

「名前、赤!」

 普段は出さない声量の徹の声。視線を上げた先に見える歩行者信号の赤い色。左から車の音とヘッドランプの光が射してハッとした。
 やばい気を抜いていた、と足を動かすよりも先に後ろから強く腕を引かれる。もつれた足元のせいで崩れるように転ぶと、目の前を乗用車が過ぎ去ってゆく。遠ざかってゆくバックランプを見つめながら次第に心拍数が上昇した。

「⋯⋯痛っ」

 耳元で呟くように声が聞こえて、徹も一緒に転んだことを理解する。お腹に回った腕の温かさを感じながら、轢かれそうになった先ほどの一瞬の出来事に戦慄した。徹がすぐに反応してくれなかったら、私どうなっていたんだろう。いや待って。今はそれどころじゃない。それよりも、まず。

「け、怪我! 徹、怪我は!?」

 徹も一緒に転んだということは私を庇ってどこかに怪我をした可能性もある。這い寄るように襲ってきた恐怖は一瞬にして不安へと姿を変え、私は思い切り後ろを振り返った。眼前、至極近い距離にある徹の顔。まさにお互いしか映らないであろう距離。私の時間が止まる。

「あ⋯⋯」

 刹那的に見つめあい、慌てて距離を取る。徹も少しだけ気まずそうに視線をそらしてから言った。

「平気。どこもひねったりはしてない。それより名前は? 腕強く引いたけど大丈夫?」
「⋯⋯わ、私もどこも痛くない。むしろ引っ張ってくれてありがとう」
「立てる?」
「うん」

 先に立ち上がった徹は私に右手を差し出した。手の汚れを払って恭しくその手を取る。私よりも少しだけ温かい手のひら。包むように私の手を握って、私が立ち上がるのを手伝ってくれる。

「本当にごめんなさい⋯⋯」
「いいって。無事だったんだから。まあ、赤信号に突っ込んでいった瞬間車来たときは正直かなりヒヤヒヤしたけど。人にぶつからないでって言った瞬間に車とぶつかりそうになるんだから心臓何個あっても足んないよ」
「う⋯⋯何も言い返せない⋯⋯」
「周り見えなるくらい悩んでんの?」

 繋がれた手をそのままに、徹は心配そうに言う。こんなことになってしまった手前、正直に口にしたいけれど徹のことで悩んでたなんて言えるはずもない。

「⋯⋯うん、ちょっと。でも、ちゃんと気を付けるようにする。今の私が大丈夫って言っても説得力ないけど、さっきよりは大丈夫」

 徹は腑に落ちない様子だった。少し痛いくらいに手に力が込められ、私は世界から遠ざかる。夜を切る風の音。飲食店から漂う料理の香り。柔らかい街灯の明かり。すぐ近くに感じるそれらは、だけど全てこの手のひらの感覚に飲み込まれてしまうのだ。

「⋯⋯徹」
「なに?」
「ちょっとだけ、力を緩めてくれると嬉しい」
「⋯⋯ごめん」

 力が緩められても解けることはない。優しく、しかし確かに結ばれたままの手。必要以上の会話はないのに居心地の悪さもまたない。
 こんなにも優しく触れないでと願う反面、その優しさに甘えたいと思う。

「⋯⋯ごめんね。迷惑とか心配とか色々かけちゃって」

 徹は緩く首を左右に振る。

「名前が無事だったからもう謝らなくてもいいよ」
 
 目と鼻の先には私の住む建物があって、いつこの手が離れてもおかしくない状況だった。

「約束」
「え?」
「約束、覚えてる? 何か困ったことがあったり悩んだりした時は、絶対に一人で抱え込まないで相談してほしいって」

 向かい合わせの形になり、徹は手のひらに力を込める。その表情はやはり、どこか苦しそうだった。

「何かあるんならお願いだからもっと俺を頼ってよ。他の奴じゃなくてさ」

(21.11.05)


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