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 倦怠感。悪寒。微かな喉の痛みと食欲不振。それから程なくして風邪を引いたのは私の自己管理不足だった。帰国まであと2週間なのにこんなタイミングで発熱してしまうなんて我ながら情けない。今日はたまたま仕事がなかったから良いものの、明日からのことを考えると溜息しか出なかった。
 一刻も早く治すべく布団の中で丸くなっていると、インターホンが鳴る。先ほどSOSを出したから徹が来てくれたのだろう。重たい身体を引きずって玄関まで行き鍵を解除すると、ほら、やっぱり。

「熱、どれくらいあんの?」

 その姿に私は心底安堵した。


◇  ◆  ◇


 キッチンから優しい香りが漂ってくる。私はベッドの中で小さくなったまま、これはチキンスープだろうかと、料理を当てるクイズを一人で楽しんでいた。
 包丁がまな板を叩く音。水道から水が流れ続ける音。時々食器がぶつかって徹の慌てた声。熱に浮かされながらも、スリッパが床をこする些細な音も私の耳は機敏に拾う。

「名前、チキンスープ作ったけど食べられる?」
「ん⋯⋯」

 どうやらクイズは当たりだったようだ。心配が滲み出る声はいつもの何倍も丁寧に紡がれる。チキンスープの香りが近づいて失いかけていた食欲は一気に戻ってくる。トレイに乗ったスープカップを受け取ると、熱くなった陶器が私の寒さを緩和してくれた。

「食べられる? 俺が食べさせる?」
「食べられる」

 息を吹きかけて冷ましながらゆっくりと口に運ぶ。薄味が徹の優しさを主張しているようだった。温かい。美味しい。いつもは料理を作る側だけど、作ってもらえるのも悪くない。
 ふと徹を見ると、眉尻が下がっていることに気が付く。私に合わせて床に腰を下ろしてくれているけれど、そのおかけで表情がはっきり見える。
 ああ、私のことをすごく心配しているんだろうな。最近は特に迷惑をかけることも多かったから。徹に対する自責の念が込み上げてくるけど、結局私は謝るしかできない。

「ごめん、最近の私だめすぎるよね。この前も今日も迷惑かけてばっかりだし⋯⋯」

 手を止め、俯いて言うと徹は私の頭に手を置いた。まるで小さい子を慰めるような手つき。心が解けてゆくのを感じながらも、その手のひらの温度や大きさが数日前に握り合った指先の感覚を思い起こさせる。繊細で大胆で、脆く、儚いような。

「前は俺が謝ってばっかりって言われたけど今は名前が謝ってばっかりだね」
「あはは⋯⋯そうかも」
「頼ってくれたこと、俺は嬉しかったよ」
「え?」
「熱出たって連絡」
「思い浮かんだのが、徹で」
「うん。だからそれが俺には嬉しかった」

 体調を崩しているからだろうか、それとも徹があまりにも優しい瞳をしているからだろうか。胸がぎゅっと締め付けられる。隠したい気持ちが顔にも声にも瞳にも出てしまいそうで怖い。これ以上翻弄されたくないのに心が勝手に加速する。いつもなら隠せる想いも、今なら全てが露呈してしまいそうだった。

「徹」
「うん」
「来てくれて、ありがと」

 当たり前じゃん、と徹は言って笑ったけど、私の心には苦しみが広がった。
 帰国が迫るのを寂しいと思うこと。全てを放棄してこのまま徹に甘えたくなっちゃうこと。手を離さないでと願うこと。普段の私だったらこんな気持ちにならないはずなのに、たった2℃上がった熱が私の思考を乱す。
 私たちは幼馴染だけど家族ではない。国籍だって違う。チームもばらばらになって簡単に会うことは出来ない。理解していた事実が急に刃となって私に襲い掛かる。それは「寂しい」と言う他なくて、抗いようのない現実は体調を崩した私にはあまりにも鋭利過ぎた。

「ちょっとなに泣きそうな顔してんのさ。そんなに具合悪い? 病院行く?」
「⋯⋯寝てれば治るし、泣いたりなんかもしない」
「そっか。俺がここにいてあげるから安心してゆっくり眠りな」
「うつると困るから帰っていいよ」
「名前に何かあったときのほうが困るんだけど」

 半ば強引に布団をかけられる。
 泣きはしない。ここでは。徹の前では。
 横になったまま徹を見つめる。私の視線に応えるように徹は小首を傾げた。ああ、眠くなってきたな。容赦なく襲い掛かる睡魔に抵抗する力もない。手を伸ばせば触れられるのに。こんなにも近くにいるのに。見つめあって、同じものを共有しているはずなのに。なんで私はその心に寄り添うことが出来ないのだろう。
 
「⋯⋯ねえ」
「ん?」
「どうしてカサンドラの気持ち断ったの?」

 気が付けば口にしていた。徹は一瞬驚いて、だけど何かを隠すように曖昧に笑う。
 もう一度添えられた手のひらがゆっくりと頭を撫でる。髪の毛の流れに沿うように。まるで催眠術のように瞼は自然と下りて、視界は何も捉えなくなった。

「どうしてだろうね。⋯⋯名前のことが思い浮かんだからかな」

 徹の優しい声だけが鼓膜を揺らす。その言葉の意味を考えるには、私を襲う熱が高すぎた。

(21.11.06)



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