長い夢路を経て目を覚ませば、ベッドサイドに徹が俯せていた。恐らく徹も眠っているのだろう、私が体を起こしたことに気づく様子はない。ゆっくりと呼吸を繰り返しながらベッドヘッドにある時計へ視線を向ける。夜8時。どうやら私は4時間近く眠っていたらしい。
さっきよりも頭がすっきりした気がする。徹を起こしてしまわないように夜の明かりが差しこむ部屋を見渡した。テーブルの上の食器がないし、どことなく物が整理されている気がする。私が眠っている間に徹が世話を焼いてくれたのだろうか。
薄暗い部屋の中で私は徹に目を向けた。つむじ。少し乱れた髪の毛。長く伸びるまつげ。通った鼻筋。じっと見つめて、私は控えめにその頭に手を置く。高級なガラス細工を手にした時のように恐る恐る手のひらを動かした。
そんな私の動作に気づかず、徹は眠ったまま。こんな風に触れるのはいつぶりだろう。もしかしたら初めてかもしれない。私が徹を見下ろすことはそうそうないから。
もう、ここにはいないと思っていた。
眠る前の記憶はぼんやりとしか覚えていない。どこまでが現実でどこまでが夢なのか判断しかねると言ったほうが正しい。私は徹にカサンドラとのことを尋ねたんだろうか。それともあれは夢だったのだろうか。
「徹」
小さな声で名前を読んでみても反応は返ってこない。こんな状況なのに心はやけに冷静で落ち着いていた。
「⋯⋯私のこと、好きだったりする?」
それを良いことに言葉にしてみたけれど、言葉にすればますます実感が伴わなかった。ってカサンドラとニコラスが言ってたんだよね、と付け加えたいくらいに。
もう一度名前を呼ぶことも憚られて、私は徹を軽くゆすった。何度か肩を叩くと、伏せられていた徹の顔が上がって見つめあう。
「⋯⋯俺、寝てた?」
「うん。おはよう」
「熱は? 具合、どう?」
「さっきより楽になった気がする。熱は今から測る」
間接照明を点け、手元にある体温計で熱を測る。徹は私の足元の位置に座り直しその様子をじっと見つめていた。測定されるまでの短い時間ですら何かがもどかしく感じる。静かな部屋に測定が終わった合図が響いて温度を確認した。
「あ、微熱まで下がったみたい。徹が色々助けてくれたからだと思う」
「良かった。今ならまだなんでもわがまま聞くよ? してほしいことある?」
「え〜どうしようかな⋯⋯あ」
「お。思いついた?」
わがままではないけれど眠る前のことを聞こう。そう思ったのは衝動的だった。
「私、眠る前徹と何話してた?」
「え?」
「眠たくてぼんやりとしか覚えてないから大事なこと聞き漏らしてたら困るなって」
瞬きを数回繰り返せるほどの沈黙を経て、徹は言う。
「風邪うつると困るから帰ってとは言ってたね。結局気が付いたら眠っちゃってたけど」
「そっか⋯⋯」
ならば、カサンドラのことは私の夢だったのか。やりとりを厳密に覚えているわけじゃないし、徹の言葉も思い出せないけれど。だけど徹は笑顔に何かを隠している気がする。それを追求する言葉を持たない私は腑に落ちないまま。
徹にとって私は、全てを曝け出せる存在ではないのだろうか。まだまだ私は頼りないのかな。少しだけで良いのに。醜いところも、弱いところも、酷いところも、今にも崩れそうな脆い心だったとしても私は大切に抱きしめるのに。
それが及川徹なのだとしても、私はもう少しだけ近い場所で息をしてみたいよ。
「ねぇ」
「うん?」
だから徹の背中に耳を押し当てた。それが私の出来る最大限だった。
「エッ」
体の真ん中左寄り。血液を送り出す臓器が絶え間なく動いているのを感じる。一般的な速度よりも少しだけ心拍数が速いのは私の突然の行動に驚いたからだろう。
どくん。どくん。徹が生きている証が私に伝わる。それはとても優しい音。
「⋯⋯生きてるね」
「まあ、ね」
決して止まることなく動くこの音を聞いていると、近づけたような気になる。それと同時に、この音がいつまでも奏でられるのならそれだけで良いと思えた。生きる場所は違っても、どれだけ離れていても私たちが幼馴染であることに変わりはない。
「ちょっと心拍数高いね」
「いや、だって急にこんなの普通にドキドキするでしょ⋯⋯」
「私相手に今更だなぁ」
音は早く、だけど一定だ。
望んでいた形とは違うけれど、多分私は今、徹の心に触れている。
「あのさ、徹」
「⋯⋯なに」
「今、何考えてる?」
「いくらなんでもこの状況は名前のこと以外考えられなくない?」
「あはは」
「いや、笑い事じゃないんだけど!」
徹から距離を取る。優しい音は聞こえなくなって、その記憶が鼓膜に残るだけだ。私はこの音をきっと忘れない。無垢で無防備な心を。見栄も意地もない徹の音を。
(21.11.06)