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 そして、ついにその日はやってきた。
 
「さて、知っていると思うけれどナマエは今日でチームを去ることになる。ナマエ、尽力をつくしてくれてありがとう。最後に一言もらえるかい?」

 練習後のミーティング。チーム全員が集まる中、ブランコ監督は改めてその事実を周知した。事前にアナウンスはされていたから私が今日で最後だということは周知の事実だ。朝からたくさんの声をかけられ、やりとりを交わした。そんな時間もあと僅か。
 促され、私は初日と同じように皆の前に立つ。右も左も誰も彼もわからなかったのに、今となっては知った顔ばかりだ。目まぐるしい6ヵ月間が頭の中を駆け抜ける。

 呼吸をする。ゆっくりと。気持ちを落ち着かせて、最後のスピーチは英語時々スペイン語で。思いを言葉にする度に感情は私の中の何かを押し上げた。それをぐっと堪えて紡ぐ。選手やサポートメンバーの顔を一人一人見つめる。私の同僚だった人たち。これからライバルになる人たち。たくさんのことを教えてくれた人たち。

「Muchas Gracias(本当にありがとう)」

 その言葉を最後に徹と目があって、私はここへ来たばかりのことを思い出した。戸惑いや期待。不安とか希望とか。たくさんの感情と共にこの地に降りて、そして今日に至った。

——この場所で私は成長出来たか。

 自分自身に問いかける。
 出来た。
 この地で得た経験を活かすのはこれからの自分次第。彼らと共にした時間を何一つ無駄にしたくない。だから現状に満足なんかしないで私はこれからも学び続ける。私自身の為に。

 南米、アルゼンチン。
 私が恋を捨てた国。そして私の夢を育ててくれた国。


◇  ◆  ◇


 帰国前夜。チームの食事会を終え私と徹は最後の帰路を共にした。

「んー! 今日も星が綺麗だ」
 
 通い慣れた道を、見慣れた景色を、出来るだけ多く五感に焼き付けるように歩く。
 最後だからと少しだけ飲んだお酒が気分を高揚させてくれて、足取りも軽くなる。一緒に帰るのが当たり前になったのに、今日が最後なんて嘘みたい。

「部屋、綺麗に片付いた?」
「うん。基本は備え付けだし、そんなに荷物も持ってきたわけじゃないから」

 部屋もずいぶんすっきりした。明日の為にまとめた荷物は来た時よりお土産分が増えた程度。ここへ来たばかりの頃そうしたように、大きなキャリーケースを引っ張って今度は日本へ向かうのだ。

「6ヵ月と半月しかここには居られなかったけどここにはたくさん思い出があるなぁ。片づけた今でも明日はこの部屋に戻ってこないのが不思議に感じるくらい」
「俺もそう思う。明後日もその次の日も名前がいないのが不思議に感じる」
「似てるね。徹がアルゼンチンに行ったときに」
「そう?」

 あの時、私は徹に対してそう思った。本当に明日から徹はアルゼンチンに行くのだろうかと。桜が舞う頃、徹が日本のどこにもいないのがあの時は不思議で不思議で仕方なかった。だけど今は。

「でも今は徹がアルゼンチンにいること、すごくしっくりきてるよ」

 私たちはまた別々の道を歩くことになるけれど、これは別れではなく旅立ち。次のステップへ進むための必要な儀式。

「3年前、約束したよね。お互い夢の為に頑張ろうって。ちゃんと自分の夢を叶えようって」
「うん」
「私、ここまで頑張ってきたよ。努力もしてきた。弱音も吐いたし自信なくした日もあった。でもまだまだ夢の途中だからこれからも頑張る。徹とはまた離れ離れになるけど、変わらず頑張り続けるから」

 だから徹も頑張ってね。そんな思いを込めて見つめる。私の幼馴染。私の初恋。青春。憧憬。原動力。

「名前」

 見つめあい、名前を呼ばれる。大切に。慈しむ様に。一音一音を噛み締めるように。肉声は空気を揺らし、私の鼓膜に触れる。
 ああ。またその表情。私の様子を伺うように指先が私の頬に触れて、心臓が一気に跳ね上がる。瞳に込められた思いを探ろうとしたけれど生まれる熱に飲み込まれてしまった。逸らすことが許されない視線。小さな呼吸の一つさえ支配された気分。

「俺⋯⋯」
「うん」
「俺、は」
「徹?」
「⋯⋯名前と一緒に戦えて良かったと思ってる」
 
 その声はあまりにも優しかった。優しすぎた。
 捨てたはずの想いがあちらこちらに落ちている。困ったな。いつでも拾える場所にあるんだもん。何年間もひとりで積み上げてきた感情が今になってまた顔を出す。好きだった。徹が好きだった。生き様が。思いの強さが。貪欲さも、時々子供みたいに無邪気なところも。無駄にかっこつけちゃうところも。全部全部、本当に好きだった。
 その想いが私をここまで連れてきてくれた。私の人生を彩ってくれた。私にとっての灯台みたいな人。

「うん。うん⋯⋯うん、私も」

 これがアルゼンチンで過ごす最後の夜。どこかに閉じ込めておきたいと思った。人目の触れないところに入れて、鍵をかけて大切に保管したい。だけど私は魔法使いじゃないからそんなことは出来ない。寂しいけどこの夜は今日に置き去りにしなくちゃいけない。
 だけどきっと思い出す。この優しい日々を。共に過ごした日々を。徹を好きだった気持ちを含めて、ここは私にとっての大切な場所。

(21.11.07)


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