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 いつかの日と同じようにニコラスが運転する車に乗って空港を目指す。トランクに荷物を詰め込んで、カサンドラと後部座席に並んだ。サンフアンの空港は市内からそれほど離れてはいないけれど、市内中心部を抜けると景色は徐々に広がってくる。
 アルゼンチンの大手スーパー。人気のお菓子の広告。南米に多く出店しているカフェ。来たばかりの時は何もわからなかったのに、今は「ああ、あれね」と思える。いつの間にかいろんなものが私に馴染んでいた。せっかくお気に入りのお菓子を見つけたのにもう簡単に食べられないのは悲しいな。
 少しだけ開けられた窓から入ってくる風は容赦なく私の髪を揺らして、アルゼンチンの香りを運ぶ。

「私も絶対にニホンに遊びに行くから、その時は案内してね」
「もちろん。カサンドラの行きたいところどこでも連れていくよ」
「それとまたこっちに来るときは絶対に連絡して。皆で出迎えるわ」
「楽しみ」

 今生の別れではないとわかっているのに、空港に近づけば近づくほど寂しくなってくるのはどうしてだろう。思い返せば楽しい思い出ばかりが浮かんでくるのに、それが故に少しだけ泣きたくなる。
 だけど、見送られるほうで良かったと思ったのは私だけの秘密だ。襲ってくる疲労やタスクの多いほうがこの寂しさを誤魔化してくれるだろうから。

 道路が空いていたこともあって空港へは予定時間より早めに到着することが出来た。
 空港と言う建物にはどこか不思議な空気が流れているような気がする。中に入った瞬間からガラリと変わる空気感。終わりと始まり。出会いと別れ。そういう両極端の感覚が綺麗に混ざり合うこの感じは、どこか気持ちをはやらせる。新幹線や電車に乗る時ともまた違うその感覚は、だけど、嫌いじゃない。
 チェックインカウンターに向かい荷物を預ければ一瞬にして身軽だ。国際線に切り替わるのはブエノスアイレスだからここではまだ出国審査もない。そのため搭乗ゲートには15分前までに行けば大丈夫となっている。

「軽く何か食べておく?」
「うん」

 ニコラスの提案に賛同する。とは言ってもここは地方空港だからたくさんの飲食店が入っているわけではない。軽く、となればカフェは1つしかないし、どのお店に入ろうかという会話をすることもなく私たちは当たり前のようにカフェへと向かっていった。

「ナマエ、ニホンまでは長いフライトになると思うけど気を付けてね」
「うん。ありがとう」
「天候も良いし、飛行機揺れないだろうね」
「私も今朝起きて雲が全然ないことにホッとした。これなら揺れないな〜って」

 私に話題を振ってくれるカサンドラやニコラスとは対照的に、徹はいつもよりも言葉数が少ないように思えた。具合が悪い様子は見えないから、たまたまなのかもしれないけれど。

「徹」
「ん?」
「もしかして私が帰国するの悲しいの?」
「え」
「なんてね。冗談。いつもより口数少ないからちょっと心配になっただけ。大丈夫?」
「いや⋯⋯まあ、名前がいなくなるの、やっぱり実感ないなって」

 真向かいに座る徹に対して茶化すように言ってみても、冷静な返答を受けるだけだった。これは多分、本気で実感ないと思っているやつだ。

「……私、アルゼンチンで良かったと思ってるよ。ブラジルでもイタリアでも中国でも、行先がどこだったとしても今回の話を受け入れてた。でもこうやって終わってみるとアルゼンチンで良かったって心から思う。徹のいる国で徹のいるチームで、暮らすようにじゃなくて暮らせたし、小さい頃夢見てた徹と同じチームになるってやつ、叶ったし。カサンドラやニコラスにも出会えて、ここで過ごした時間は大げさじゃなく私の人生を変えた」

 だから本当にありがとうと、ここにいる全員へ頭を下げる。

「⋯⋯俺も、来てくれたのが名前で良かったって心から思ってる」

 その言葉だけでもう十分だ。空港まで見送ってもらって、一緒にカフェで話をして。うん、もう大丈夫。ここからは一人で大丈夫。
 搭乗ゲートに向かう時間は徐々に近づいてきて、私たちはカフェを後にする。

「まだ少し時間あるけど中に入ろうかな」
「ナマエ」
「うん?」

 カサンドラが私を見つめて名を呼ぶ。

「私たちは展望デッキから見送るから、最後にトールとふたりで話したら?」
「え?」
「今日、トールと満足に話せてないでしょ?」
「でも昨日も話したし」
「昨日は昨日、今日は今日よ。楽しい時間をありがとうナマエ。また会える日を楽しみにしているわ」

 凛とした笑み。思いを込められたハグ。カサンドラの香り。

「僕も。ナマエ、短い間だったけどありがとう。過ごした日々は本当に楽しかった。これからはライバルとして会えることを楽しみしているよ」

 ニコラスからも同様にハグが送られて感情が一気に込みあがる。ちゃんと言葉を伝えたいのに涙をこらえるのが精一杯で私は回す腕に力を込めた。アルゼンチンでこの2人がいなかったら、きっと今の私もいない。それくらい私にとって2人は重要で、大切なひとだ。
 私と徹を残して展望デッキに向かう背中を最後まで見つめ続けた。見えなくなるまで手を振って、何度もありがとうと言葉にして。

(21.11.08)


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