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 小さな空港の一角。こうやって対面すると、たくさん悩んできたこともまどろっこしい思いを重ねてきてことも全てが愛おしく感じる。
 伝え合った言葉も共有した時間も今となっては全てが必要で、間違いなんて何一つなかったと思う。それにこんな風に見つめあったらもう未来を見据えるしかない。

「徹」

 大切に、大切に名前を呼ぶ。何度も何度も呼んだ名前。大人になった徹とたくさんの日々を過ごせた。徹の生きる国をもっと深く知れた。

「私がいなくなっても食事には気を使ってね。あと無理はしちゃだめだからね。周りのことも頼るんだよ。日本に来る時があったらちゃんと連絡すること」
「だから俺のお母ちゃんかって」
「味方だよ」
「え?」
「私は徹の味方。何があっても、どこにいても」
「⋯⋯ライバルじゃん」

 世界中が敵になっても絶対最後まで味方でいる。そう思っていたし、今も思っている。だけどそんな日はきっとこない。だって徹には私の他にもたくさんの仲間たちがいるのを知っている。徹のことを大好きな人たちがこの国にはたくさんいるのだと、私はもう知ったから。

「それでも。それでも、味方」

 徹を見上げて微笑んだ。寂しいけれど最後じゃない。次は夢の舞台で会う為に、またここから頑張る日々が始まる。

「じゃあ、行こうかな」

 少し名残惜しいけれど踵を返す。小さな手荷物検査場はそれほど人が並んでいなくて、すぐに中に入れそうだ。
 一歩進むごとに近づく。私がサンフアンを去る瞬間が。徹のもとを離れる瞬間が。

「待って」

 その時だった。徹が私の腕を掴んだのは。いつかの日と同じくらいその手のひらには力が込められていて、振り向いた先にいる徹の顔はどこか緊張しているようにも思えた。真剣な瞳を携えて私を映す徹には、だけど、迷いはなかった。
 私を見つめたまま徹は呼吸を繰り返す。それほど長い時間そうしていたわけではないのに、これまでの比ではないくらいこの時間が永遠のように感じる。

「徹⋯⋯?」

 名前を呼べば、徹は大きく深呼吸を繰り返した。頭上からは私が乗る便のチェックイン案内を終了したというアナウンスが聞こえる。
 まるで一つになるように、腕から伝わる徹の手のひらの体温がぼやけてゆく。覚悟を決めた顔つき。私、その表情も良く知ってる。

「好き」
「え」

 私を見据えるその瞳は、アルゼンチンに渡航することや帰化することを告げた日のそれによく似ていた。

「名前のことが、ひとりの女の子として好きだよ」

 予想していなかった言葉に私は目を丸くして息を飲むしかできない。頭の中が真っ白になって、言葉の意味を受け入れようとしたけれどそんな余裕はどこにもなかった。
 それでも微かに残る理性的な部分で、カサンドラとニコラスに言われた言葉が蘇って、ああそうだったのか。カサンドラの女の勘は当たっていたんだ。と、どこか他人事のような感想が浮かんでいた。

「今ここでこんなことを言うのは狡いって自分でもわかってる。だけど名前はいつも真摯に俺と向き合ってくれたのに、俺だけが言わないなんてフェアじゃないと思ったから」

 徹の想いが届いて、私は徹の心音を思い出した。優しくて暖かくて、ちょっとだけ速いあの夜の音を。胸が締め付けられて、徹が何を求めて思いを言葉にしてくれたのか。ただ伝えたいという思いだけだったのか。そんなことを考えれば考えるほど涙がでそうになる。

「ごめん」

 だけど私の口から出てきた言葉はその想いに応えるセリフじゃない。ほとんど無意識でそう言っていた。
 一瞬。ほんの一瞬だけ傷ついた顔をした徹に罪悪感が込み上げたけれど、これが最善の答えであるという気持ちは揺らがなかった。私はあの時、夢を叶えると決めた。約束も交わした。まだ何も成し遂げていない私はここでその想いに応えることは出来ない。
 その気持ちを徹はちゃんと感じ取っていたんだと思う。そのまま私から視線をそらさず続けた。

「わかってる。だから今度は俺が行く」
「え?」
「全員倒して俺が名前を迎えに行く」

 それはまるで背中を押す追い風のように私の心に届いた。

「本気?」
「こんなタイミングで冗談なんて言わないって」
「そ、そうだよね」
「仕方ないじゃん、名前じゃないとダメだって思っちゃったんだから。これからも俺を好きでいてよ」
「ハハ⋯⋯」
「名前?」
「アハハ。そっか。そっかぁ⋯⋯」
「いや今笑うところじゃなくない!?」

 そんなこと言われても笑わないともうこの感情をどう処理してよいのかわからないし。

「俺に攫われる覚悟だけしててほしい」

 何度も何度も零して、もう諦めようって数え切れないほど思って、自分の感情をどうにかコントロールしてきたはずなのにそんな風に手を伸ばされたら掴みたくなる。夢だけじゃなくて徹までほしいと欲張りになっちゃう。零した感情を、また拾い上げても良いのなら。

「うん」

 言葉と共に強く頷いた。今はまだお互い自分のやるべきことの為に。それぞれ歩む道の先で再び交わる時の為に。

「じゃあ、待ってる」

 約束を交わす。証人のない約束を。


◇  ◆  ◇


 そして私はアルゼンチンを発った。一人で飛行機に乗り、上昇する飛行機の窓からサンフアンの街を見下ろす。どんどん小さくなってゆく。手を振ってももう届かない。だけど振り続けた。展望デッキにいるカサンドラとニコラスを想って。約束を交わした徹を想って。
 飛行機は揺れることなく飛行を続ける。雲を抜け、国を越え、長い時間をかけて私は日本へ戻る。たくさんの思い出を乗せて。たくさんの希望を乗せて。

(21.11.08)


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