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 試合終了のホイッスルは会場に大きく轟いた。ボールが落ちた瞬間に鳴ったその音はいつまでも鼓膜に残り、余韻をどこまでも広げる。
 東京オリンピック。バレーボール競技。金メダルをアルゼンチン。銀メダルを日本。結果が確定した瞬間から選手たちはすでに3年後のパリオリンピックを見据えていた。

 メダルを会得した国の旗を背景にアルゼンチンの国歌が流れて、表彰台に登る代表メンバーを私たちはただ見つめる。
 試合はファイナルセットまでもつれ込み、何度もデュースを重ねた。どちらが勝ってもおかしくない内容だった。だからこそ銀メダルという結果で終わったことを全員が悔しいと思っている。でも、そこに喜びがないと言えば嘘になる。男子日本代表がメダルを会得したのは数十年ぶりだし、何より次へ繋がるような試合内容だった。
 1年後、2年後、3年後。今と全く同じメンバーでチームを結成することはきっとないだろう。それでもこのチームで得た経験は皆の糧となる。いつかのバレーボーラーの憧れとなる。


◇  ◆  ◇


 メダル授与式を終えた各チームはメディアの対応に追われていた。写真撮影やインタビュー対応。私たちは裏方として後片付けを手伝いながら、その光景を傍目で見ていた。
 徹は日本のメディアからもインタビューを受けていたし、同郷だからということで影山くんと牛島くんとも並んで写真を撮られていた。昔から変わらない様子で言い合う様子もあるけれど、心の中では互いを称賛しているんだと思う。

 一通りの取材や撮影が終わりメディアの人たちは会場を後にした。観客席にも人はもういなくて、私達もそろそろここを出なければならない。荷物を持った私を呼び止めたのは徹だった。
 首には金メダルがかけられており、その存在感も相まって日本代表の中に混ざる私の元までやってきた徹にはたくさんの眼差しが向けられる。

「少しだけ、いい?」
「うん」

 思わず隣にいるはじめを見る。軽く微笑んだかと思うと優しく背中に手が回った。そっと前へ押し出されて私は徹に近づく。

「攫いに来た」

 それだけ。
 ただそれだけ言うと、徹は跪いて私の手を取った。まるで絵本の王子様がするようなポーズ。
 確かに考えてみれば徹は宣言通り全員倒したことになるけれど、まさか、だからってこんな堂々と攫われるなんて思いもしなかった。普通じゃない状況に周囲がざわめき立つ。

「と、徹。恥ずかしいから⋯⋯!」

 この状況を見られていることに羞恥を感じているのは私だけなんだろうか。徹は少しも恥ずかしくないんだろうか。周りは見知った顔ばかりなのに。
 耐えきれずヘルプを求めるように視線をそらす。宮選手はこっちを見ながらニヤニヤしているし、木兎選手はどこかワクワクした表情だし、日向選手の顔はすごくキラキラしている。さらには向こうにいるブランコ監督までもニコニコしているのがわかる。これははじめに助けてもらうしかないと思って視線を向けても、私に加勢してくれる様子は微塵もなかった。
 完全包囲。諦めて致し方なく徹に視線を戻すと、真摯な瞳が私を見つめる。

「名前、俺と一緒にアルゼンチンに来て」
「⋯⋯え?」
「同じ場所で暮らそう」
「え!?」
「覚悟しておいてって言ったじゃん」

 いたずらが成功した子供みたいな笑み。徹からそう言われたことはしっかり覚えているけれど、覚悟ってそういう覚悟だとは思わなかったし。徹がそこまで考えているなんて夢にも思わなかったし。
 選手たちが一向に動き出さないことに気が付いたのだろう。僅かに残っていたメディアの人たちもこの場で起きていることを把握して、カメラを向けられる。
 オリンピックでプロポーズや告白をする選手はいるけれど、それがまさか自分の身に降りかかるなんて予想できただろうか。いや、出来るわけない。

「ほら、答えてくれないとずっとこのままだよ」
「い、意地悪⋯⋯!」
「うん。ごめん」

 悪びれる様子もなく徹は謝った。
 徹と一緒にアルゼンチンへ。あの国で生きる自分を想像してみる。真逆の季節。逆さまのオリオン座。まだまだ不慣れなスペイン語。広大な大地と、美味しいワイン。

 ⋯⋯まあ、悪くないかな。隣に徹がいるんだったら。

 息を吸う。視線に応えるように徹を見つめる。こんな未来、あの頃は想像すらしていなかったけど。

「⋯⋯いいよ。アルゼンチン、好きだし」

 世界は広い。日本からアルゼンチンに行くまで何十時間も、何十万円も費やさないといけないことを私は知っている。だけどそこは行ったら最後、なんて場所じゃない。
 私たちはどこへでも行ける。夢をかなえる場所はひとつだけじゃない。それを知っているから、飛び出すことはもう怖くない。
 立ち上がった徹は私を強く抱きしめた。安堵するような長い息が耳元で聞こえて、あんなにかっこつけたくせに緊張していたんだなと心が温かくなる。
 でももうこれ以上はさすがに羞恥心で死んでしまうからと徹を押しやると、極めつけをお見舞いされた。

 それは優しい優しいキスだった。

「ちょっと! なんで今!?」
「えっ今以外ある!?」
「少なくとも今ではないよ!」
「なんでそんな怒るの!?」
「怒るよ! むしろなんで怒らないと思ったの!」

 その出来事が翌日のニュースを賑わせたのは言うまでもない。
 多くの人に祝福され、時々からかわれて、私は徹と共に生きる未来を選んだ。こうして宣言通り徹に攫われた私は、程なくして3度目のアルゼンチンへ向かうことになったのである。

(21.11.10)


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