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 出国ゲートを通る。
 出入国スタンプが増えて年季も出てきたパスポートだったけれど、更新した今、手の中にあるそれは綺麗な状態のままだ。忘れ物はない。今更引き返すことは出来ないし、引き返す気もない。想いも覚悟も全部詰め込んでここまで来たのだから。

『今から飛行機乗るね』
『乗り換えの時は連絡して』
『わかった』

 搭乗案内に従って機内へ乗り込む。いつものように窓側の席をリクエストして、外を見渡す。今回も隣に座る人はいなくて気が楽だ。乗客が全員揃うと機内にはエンジン音が轟く。ゆっくりと機体が動き、滑走路へ向かう飛行機に整備士の方たちは今日も手を振ってくれる。
 離陸直前の機内が少し暗くなる瞬間。エンジン音は一層強くなり、飛び立つんだという気持ちを加速させる。勢いと共に機体は傾き上昇する。窓から見える建物はどんどん小さくなっていった。
 とうとう日本を離れてしまった。生まれ育った国を離れるんだから寂しくないわけない。込み上げるものをどうにか抑え込んで深呼吸を繰り返す。人生は何が起こるかわからない。何度も何度も思って、結局また同じことを思ってしまうのは飛行機から見える景色が美しかったからだろうか。

 これは私の長い旅。永遠に終わらない、どこまでも続く旅。


◇  ◆  ◇


 3度目の渡航だから慣れたものだと思ったけれど、疲れるものは疲れる。成田空港を出発して約2日と数時間。無事にサンフアンまで辿り着くことが出来た。無事に着陸したことを徹とはじめに連絡して飛行機を降りる。見慣れた外観。懐かしい景色。今度こそ本当にこの場所が私の生活拠点になるのだ。
 首都ブエノスアイレスにて済ませた入国審査。提出書類と質問は多かったけれど何度も入念に確認したおかげか問題なく通過することが出来た。あとはただ徹に会うのみ。手荷物受取所でキャリーケースをピックアップして、現金を両替して、その瞬間が近づいてくる。
 視界に入るNo Returnの文字。わかってる、戻るつもりなんてさらさらない。珍しい人種にまたしても一瞬視線が集まる。でも気にしない。私を見つけてほしいのは一人だけ。

「名前」
「徹!」

 歩み寄り私の傍らに立った徹はその腕を回して私を抱きしめた。視界が埋め尽くされて、鼻腔に届く徹の香水。東京オリンピックからそれほど月日は経っていないはずなのに、怒涛の日々だったからだろうかとても久しく感じる。

「お疲れ様」
「うん」
「会いたかった」
「待って。徹とこういう感じになるの慣れてないから照れる⋯⋯」
「早く慣れてくれないと困るんだけど」

 囁くように言う徹と距離を取る。今まで幼馴染だったし長い片思いだったわけだし、急に舵を切られると私のキャパシティはオーバーしてしまう。
 徹は簡単にそう言うけれど、しばらくは慣れないと思うからそこは私に合わせてほしい。

「ニコラスが駐車場で待ってくれてる。カサンドラもいるよ」
「嬉しい! 早く2人に会いたかったんだ」
「⋯⋯なんか俺の顔見た時より嬉しそうじゃない?」
「気のせい気のせい」

 スペイン語、あれからちゃんと勉強したけれど大丈夫かな。8月の冬を、12月の夏を上手に超えていけるだろうか。
 心配は尽きないけれど、徹がいる。それに私はこの国が好きだからきっと大丈夫。

「あ、はじめから返信きた」
「岩ちゃんなんて?」
「えっとね⋯⋯幸せに暮らせよ、だって。あと」
「あと?」
「私のこと泣かせたらぶん殴りに行くってさ」
「泣かせないけど怖いな!」

 離れていても届く変わらない優しさ。私はたくさんの人たちと出会って、支えられて今日まで生きてきた。
 そして今度は私が支えるのだ。徹を。徹の人生を。見据える先にあるものが荊冠のように辛いものだとしても、私が守る。だって喜びも幸せも、至る所にある。

「名前」
「うん?」
「ずっと俺のことを想ってくれたこと、本当に感謝してる」
「⋯⋯改まるね?」
「こういうのは最初が肝心でしょ」
「そっか」
「この国で俺が名前のこと誰よりも幸せにするから。だから、これからも俺と一緒に戦って」

 長い恋だった。
 ひとりきりの恋だった。
 だけど、何一つ無駄なものはない。

「うん。私も徹のことを誰よりも幸せにするよ。胃袋と健康は私が守るから安心して」
「それ本当に心強すぎ」

 隣り合って互いに笑みを向ける。一歩ずつ確かめるように踏み出して前へ進んだ。広い世界。南米大陸。アルゼンチン。サンフアン。
 空港を出て眼前に広がる青い空。ここが私の生きていく場所。運命の場所。

 辛くとも、厳しくとも、優しくとも、温かくとも。

(21.11.10)


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