生活の始まり



 見慣れた街並み。生温い空気。大地を踏みしめる感覚。この扉の色もその中に広がる内装だって知ってる。なのに、まるで違う場所へ繋がっているような錯覚に陥った。ドアノブに手をかけた一瞬、開けることを躊躇う。

「入らないの?」
「あ、うん! 入る。入る……けど」

 ニコラスの送迎してくれた車で空港から約1時間。目的地である徹の部屋へは無事に辿り着いた。以前にも何度か足を踏み入れた事があるというのに今日からここが私の家になるのだと思うと突如として緊張が私を襲う。そんな私を見透かしたのか、徹は緩く口角を上げた。

「まさか名前、緊張してる?」
「ま、まさか!」
「フーン」

 疑うような眼差し。ああこれはどうしたって誤魔化せないな。薄く口をあけて、小さく零す。

「……だってこれからお邪魔しますじゃなくてただいまっていう場所になるんだなって思うとなんか、こう」

 なんか、こう、本当に二人暮らしが始まるんだなって感じがするじゃん。もう幼なじみじゃなくなったんだなって実感するじゃん。
 肝心なところは言えないまま口を結ぶ私。それでも長年幼なじみをやってきたからか、徹は私の言わんとするところをやんわりと悟ったようだった。
 頭の上に大きな手のひらが乗って、数回優しく弾む。

「俺、名前と一緒に暮らせるの楽しみにしてたんだけど?」
「そうなの?」
「そりゃそうでしょ。オリンピック終わってもバタバタしてなかなか二人きりの時間も作れなかったし、ようやくゆっくり出来るの嬉しくない?」
「嬉しい、かな」
「じゃあ、はい。ただいま、は?」
「……ただいま」
「おかえり」

 促されるように口から出た言葉が滲む。満足そうに笑う徹の顔を見て緊張がゆっくりと形を変えようとしているのを感じた。

「ここはもう名前の家でもあるんだから必要以上に気を使わないこと。いいね?」
「うん、わかった。そうだよね。ここが私の家なんだもんね」

 関係性とか距離感とかこれからの生活の中で変わっていくものもあるとは思うけれど、私は私で徹は徹であることには変わらない。だから必要以上に気負うことなく私達らしく一緒に居るのが大切なのかもしれない。
 深呼吸をして気持ちを切り替えようとする私に、徹が何かを思い出す。

「あ、そう言えばこれ。名前に渡しておかないと」
「なに?」
「家の鍵。今日の為に用意しておいた」
「あ、そっか。ありがとう」

 玄関にあった鍵置きに手を伸ばしたかと思うと手渡される合鍵。

「……本当にもうただの幼なじみじゃないんだね、私達」
「そうだよ」

 言えなかった言葉が今になって口から出てくる。手のひらに乗せられたそれをじっと見つめていると、正面からおもむろに抱きしめられた。背中に回った腕。目の前にある胸板。じんわりと移る体温。

「な、なんで今?」
「合鍵もらって嬉しそうにしてるのが可愛いなと思って」

 事も無げに言われる。ああ、こういうところは私の知らない徹だ。幼なじみの私じゃ知ることが出来なかった徹。思いを言葉に乗せてそれを明け透けに渡されて、私はただ鼻腔に届く徹の香りを享受するしかない。

「……今まで可愛いとか言ってくれなかったじゃん」
「拗ねてる?」
「拗ねてないよ。ただ幼なじみじゃなくなるだけで徹はこんなに甘くなるんだなーって思っただけ」

 口を尖らせて言ってしまうあたり、私はきっと拗ねているんだと思う。

「ごめんって。これからはたくさん言うようにするから」
「そういう問題じゃ……ないこともない、けど……」

 身体が少しだけ離れて、徹の顔が近づいて、額と額が触れ合う。徹でいっぱいになる視界。これまでとても近い場所に存在していたお互いなのに、こんな風に物理的に距離を埋めることに慣れてないなんてちょっと面白い。
 このままキスされるかな。されたいな。してくれないかな。そんな欲望が顔を出す。

「……キスしていい?」
「ん」

 囁くような声。私はか細く返事をした。
 ただでさえ近い距離がゼロになる。重なった唇は柔らかい。何度か離れては繰り返して、だけど下心の感じられないキスはきっと徹なりの私への敬意なのだと思う。

「力入ってる」
「だ、だって……」

 ずっと好きだった人とこうして触れ合っているんだから緊張くらいする。それに私は徹と違ってそういう経験もほとんどないし。

「まあそういうとこも可愛いけど」

 徹はそう言って慣れたように額へ唇を落とした。
 深呼吸をする。手の中にある鍵の形を確かめるように拳を握る。今日からここが私の家。徹と暮らす場所。

「徹」
「うん?」
「今日からよろしくね」

 徹が微笑む。とても優しい笑顔で。

「よろしく、名前」

 今はまだ徹に翻弄される日々だけどいつか私が徹を翻弄する日が来るといいな、なんて私はひっそりと願っていた。
 
(22.10.23)


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