06



 「岩ちゃんには言ったんだけど」

 その前置きでなんとなく、察した。居住まいを正すように、背筋を伸ばして話を聞く体勢になれば徹はゴホンと1度わざとらしく咳をして改まる姿勢をとった。

「卒業したらアルゼンチン行くことにした」

 それはどこか清々しく迷いはなかったように見えた。いや、実際徹に迷いはなかったんだと思う。
 
「そっか」

 そんな世界を揺るがしてしまうような徹の言葉に私も特に驚かなかったのは、多分徹はそれを、そういう道を選ぶんだろうとある程度予想していたからだ。

「もっと驚くと思った」
「私ももっと驚くと思った」
「全然驚かない?」
「アルゼンチンかぁ⋯⋯遠いなぁ⋯⋯とは思ってる」

 それでもなんとなく、徹のいないこれからの生活を想像すると寂しさみたいなものを感じる。
 徹がいて当たり前だった生活がなくなる。じんわりと波紋が広がるように私の中に浸透していくそれは、やはり、寂しいという他ない。

「なにそれ。全然思ってない感じに言うじゃん」
「でも、寂しいよ」
「⋯⋯うん」
「普通に寂しい。気軽に会えないのとか」
「そっか」
「でも、徹なら大丈夫だろうなって思うし。私も私の夢があるから」
「うん」
「だからお互いが居るべき場所で、やりたい事の為に頑張れるの、すごい⋯⋯んー、なんていうのかな。誇り? みたいに思う」

 徹は驚いて「誇り?」と私の言葉を繰り返した。

「私も、徹もはじめも、みんな自分の夢の為にちゃんと頑張ろうとしてて、それはいつかどこかで交差するかもしれなくて、私の幼馴染はこんなにも努力家なんだって思うと誇らしくて、だから、寂しいけどきっと大丈夫だなって思える」

 いや、その言葉にはほんの少しの見栄やプライド、虚勢みたいなものが含まれていた。
 長く同じ時間を過ごした。それがもう少しで終わっていく。そんなのずっと前からわかっていて、必然でもあるはずなのに、いざその瞬間が来ると思うともう戻らない過去を想ってしまう。

「まあ私ははじめと大学近いしね。いつでも会えるから案外、徹とは会えなくても寂しいとか全然思わないかも」
「少しは思って!」

 けれど徹に言った言葉に嘘もない。私は私の夢を、徹は徹の夢を、はじめははじめの夢を追うだけ。大人になるっていうのは多分、そういう事なんだろう。
 私はアルゼンチンがどんな国かは知らない。食べ物。気候。風土。観光名所。思い浮かべられるものはない。私の知らない場所で徹は夢を掴む。ただ、それだけのこと。
 次の春、徹は日本にいない。たくさんの時間と、季節を一緒に過ごしてきたけれど、これからの季節に徹はいないのだ。地球の裏側の、私じゃ全然想像もつかないような場所で徹は生きていく。

「会いに行くよ」
「うん」
「そのときは案内よろしくね」

 私はそういう人を好きになったのだ。


◇  ◆  ◇


 実際、アルゼンチンは遠かった。遠かった、というより遠いという進行形だけど。ブエノスアイレス到着までようやく3時間を切って、私の体内時計は完全に狂っていた。今自分が何日にいて、日本は何日で、サンファンは何時なのか。スマホの国際時計を確認しないと頭の中がおかしくなる。

(決意が揺らぎそうなくらい遠いしあと1回乗り継ぐとか鬼の所業なんだけど⋯⋯)

 代わり映えしない機内。窓の外では眼下に雲が広がっているだけで、気を抜けばこの旅は永遠と続いてしまうのではないかと思ってしまいそうになる。高校を卒業してすぐに飛び立った徹はどんな気持ちでこの距離を移動したのだろうか。何を思いながらこの景色を見ていたのだろうか。
 日本から持参したアルゼンチンのガイドブックをめくる。分厚い本のほとんどはブエノスアイレスに割かれていて、サンフアンについて得られる情報は極僅かだ。自分がいま南半球にいる実感もないまま、飛行機は着実に私をブエノスアイレスへと運んでいく。機体が大きく浮上することも、積乱雲に邪魔されることもない快適な空の旅。
 あと少し。あともう少しで会える。溜め込んだ気持ちをすべて捨てていく覚悟をもう一度決めて、深呼吸を繰り返す。きっともうこんな旅路は二度とないだろうから。

(20.10.08)


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