辛いと思っていた気持ちと同等に、幸せだと思った瞬間が数多くあった。だから私は大人になっても思い出してしまうのだろうか。後悔に似た念は時々強く、どうしようもないくらい私の人生を揺らがせる。
 目の前にいる影山はあの頃の影山とどれくらい違うんだろう。私の知らない時間を過ごしてきた影山は今何を思っているんだろう。






 初めて影山の家に行ったのは、私の誕生日の前日だった。それまで私は自分の誕生日を影山に伝えたことがなくて、影山からも聞かれてはいなかったから知らないものだと思っていた。影山の家に行くことになったのだって迫り来る定期考査のためであって、決して私の誕生日をお祝いするという名目の名の下ではなかった。
 だから期待はしていなかったし、それを意識して過ごしていたわけでもない。

「ただいま」
「⋯⋯お、お邪魔します」
「おかえ⋯⋯どなた?」
「彼女」
「えっ彼女? 飛雄に? 嘘でしょ⋯⋯」

 家にお邪魔して出迎えてくれたのは影山のお姉さんだった。お母さんは留守でいなかったけれどお姉さんと少し話をした。部屋で教科書を広げているとケーキと紅茶を出してくれて、ごゆっくりと言う言葉と一緒にお姉さんは部屋を出ていく。妙な沈黙が訪れて、私は間を埋めるよにケーキを口に運んだ。
 
「⋯⋯あ、これ美味しいね」
「どれだ」
「このチーズケーキ。私、ケーキならチーズケーキが1番好きなんだよね」

 その言葉が影山の中に残り続けることをこの時の私はまだ知らない。

「一口くれ」
「え」
「嫌ならいい」
「嫌とかじゃないけど⋯⋯」

 嫌とかそういうことじゃなくて、影山は何も思わないんだろうか。一口分のケーキをフォークで切り取って影山の口に運ぶ。「旨いな」と言う影山は本当に何も分かっていないようで、この状況に緊張しているのは私だけなのかと思うと少し悔しい。
 ケーキを食べ終え、勉強を始めて少し経った頃、おもむろに影山が言う。
 
「なあ」
「なに? わからないところあった?」
「明日、誕生日なんだろ」
「うそ、知ってたの?」
「少し前に谷地さんが教えてくれた」
「そっか。そうだよ、明日誕生日」
「欲しいものなんだよ」
「欲しいもの?」
「一応考えてみたけど全然わかんねえから欲しいもの言え。あんまり高いのは買えねえけど」

 この感情はきっと言葉に出来ない。嬉しさは計り知れないし、感動にも似ている気がする。バレーに染まる影山の人生の中に私もちゃんといるんだなあと思うと、その言葉だけで十分だった。やらなくちゃいけないこととか、やりたいことで手一杯な中で私に連絡をくれたりしているのに、これ以上を望むと欲張りな気がした。

「いいよ。気にしないで」
「言えよ。なんでもいいから」
「でも欲しいものとか思いつかないし」
「無理やり考えろ」
「ええ⋯⋯」
「気持ちだけでかなり嬉しいんだけど」

 意外にも影山は食い下がってきた。本当に欲しいものは見つからないし、気持ちだけで満足だったから何も浮かばない。もちろん影山がくれると言うのなら多分何だって私には宝物になる。

「⋯⋯本当になんでもいいの?」
「⋯⋯買えるものなら」
「影山にしか出来ないことなんだけど」
「とりあえず聞く」
「今度、いつでも良いんだけど、一緒にどこかに出掛けたい」

 私たちはまだ1度も一緒に出掛けたことがなかった。私が影山を待って一緒に帰ることはたまにあったけれど、今日だってテスト期間中の部活休みだから出来たことで、基本的に多忙な影山とはデートなんて夢のまた夢だった。
 一応学校では毎日会えるし、時々お昼ごはんを一緒に食べたりするし、休みの日に少しだけ会ったりは出来るから不満はなかったけれど、おしゃれをして彼氏と出かけるという行為に憧れがないわけではなかった。
 年明けには春高が控えているし、練習時間も増えるだろうから影山には難しいかもしれないと半ば無理を承知のお願いだった。実際、影山は私の言葉に少しだけ顔をしかめた。

「まあでも無理にじゃないから。いつかね、いつか」
「わかった」
「⋯⋯わかったって、いいの?」
「お前が言ったんだろ」
「そうなんだけど、だってバレー忙しいし」
「なんとかする」
「なんとか⋯⋯」

 確かに言ったのは私だ。けれど無理してそうして欲しい訳じゃない。いつだって都合のつく私と、バレーと共に生きる影山では難しいことも多い。期待と罪悪感が入り交じる。
 私、この人の彼女でいていいのかな? 最初に思ったのはこの瞬間だった。

「楽しみに待っとけ」
「⋯⋯うん」

 私には人生をかけられるくらい好きなものがあるわけじゃない。友達と遊ぶ時間を減らしてまでやりたいことがあるわけじゃない。やらなくちゃいけないことはするし、興味のあるものは進んでやったりもするけれど、影山のそれとは全然違う。周りからの期待値が高いわけでもない。女子高生らしい普通の生活を毎日送っているだけ。私は言わば中央値にいるような人間。別にそれがイヤってわけではない。普通っていうのは案外楽で心地好くて簡単だったりするから。
 だけど影山は違う。何かを犠牲に出来るくらい好きなものがあって、周りから期待もされている。そしてそれに応える能力がある。確かに勉強は苦手だし、人の気持ちを汲むのが下手なところもあるけれど、多分そんなの影山には問題ない。オーラとは違うけれど、他の人とは一線を引くような人っていると思う。影山はそういうタイプの人間だ。
 私は薄々とそのことに気がついていた。だけどすっと考えないようにしていたのだ。自分の為に。

「なんでそんな顔してんだよ。欲しいもん思い付いたのか?」

 だって、とても好きだから。
 影山のことが好きで好きでしょうがなかったから。好きだから、気がついてしまうのは辛かった。

「そんな顔ってどんな顔」
「眉間にシワが寄ってる」
「そんなことないと思うんだけど⋯⋯」

 テーブルに対して斜め横に座っていた影山が私に手を伸ばす。大きな手のひらが私の頬全体を包み込むように触れて、体温が移ってくるのを感じた。突然の出来事に私は言葉を失って、影山を見つめる。

「笑えよ。言っただろ、なんでもいいって」

 影山は弱い力で優しく私の頬を上げる。身体が熱を帯びる。こんな風に触れられたのは初めてだった。何が影山をそうしているのかは分からないけれど、これまでとは違う雰囲気に私はどうしてよいのかわからなくなる。
 胸がざわめいて、考えるよりも先に口が動く。

「⋯⋯キスして」

 絞り出すように出てきた言葉に影山は驚いた顔をした。引くにも引けなくて私はそっと影山の服の裾をつかんだ。影山の指先が頬を滑って、ゆっくりと顔が近づく。自分で言ったのに時間を止めてしまいたかった。うるさいのは自分の心臓なのか時計の針なのかもわからなくなって、瞼を下ろした。少し乾燥した唇が触れたと理解すると同時に私は息を止めてしまう。胸の奥が痛い。名残惜しむように離れていったそれを、私はもう既に恋しいと思っていた。

「おい」
「⋯⋯なに」
「その顔、可愛いな」

 こんなに脈打つのが早いと、誕生日を迎える前に私は死んでしまうんじゃないかと思った。苦しいくらい愛しく幸せな瞬間。それが私の初めてのキスだった。

(20.09.17)