それは緩やかな坂道を下っていく感覚に近かった。

「凄いね影山くん。テレビ出てたしインタビューもされてたね。バレーしてる時もすごくかっこよかったし、こんな人が彼氏なんて羨ましい。自慢したくなるでしょ?」
「うーん、まあ。ははは⋯⋯」

 春高に出たことは影山にとってかなり大きなことだったと思う。もちろんのことながら、それをきっかけに校内でも影山に注目が集まるようになった。私もこうやって時々「影山の彼女」として羨望の言葉をもらうことがある。
 けれど私はその度、曖昧に笑って誤魔化す。私は気がついてしまったのだ。影山といるときに感じる気持ちの正体を。
 確かに私は中学の時からしか影山の事は知らない。でもその時から格好いいことだってバレーが上手かったのだって知っている。何度も大会に足を運んだし、影山がバレーにどう向き合っているのかだって、それなりに理解しているつもりだった。
 つもりだった、のだ。
 テレビの向こう側にいる影山を観た。影山のプレーを解説する声を聞いた。浴びせられる喝采。拍手。応援。私のいない場所で輝く影山は、私にとって遠すぎた。
 それは紛れもなく「焦り」だった。
 私は影山よりも成績が良いし、おそらく家事も出来る。一般常識もあるだろうし、人に迷惑をかけることも少ない。と、思う。けれどそれでは駄目なのだ。影山より何かが秀でていようと意味がない。そんなものでは比べられないくらいのものを影山は持っている。私では手に負えないような、重すぎるくらいのものをきっと影山は手にしているのだ。
 それは平凡を良しとしていた私にとって衝撃的な事実であると同時に、今まで正体の分からなかった、私たちの間の溝にあるものの答えだった。

「影山くんと付き合えるなんて名前ちゃんは幸せだね」
「⋯⋯そうだね」

 幸せなのかな。羨ましがられるのが普通なのかな。でも、私は全然影山と釣り合っていないんだよ。影山は私がいなくても平気で、きっと私以外の女の子でも上手くいって、もし私が別れを切り出してもきっと止めはしない。
 影山はいつも近くて遠い。本当は私、影山の唯一になりたかった。そうであると言う自信がほしかった。そしてそんな凄い人の隣にいられる自分のことを好きでいたかった。
 影山は私の見える道のずっとずっと先の方にいる。振り返って私を見ることもない。私は影山の隣に行きたいのに、足は縫い付けられたように動かななくて行けない。それが、近くて遠い私たち。
 こんなことを思ってしまう自分が嫌いだ。






 そんな折、私はもう1度影山の家へ訪れる機会が出来た。終業式が終わり、春休みに入ってすぐの事だった。
 春用の薄手のコートは着るにはまだ少し寒かったけれど、影山の家はそう遠くもないしと新しいコートをおろした。そんなの何の意味もないとわかっているのにいつもよりマスカラをしっかりつけて、ヒールの細い靴を履いた。お気に入りの服で身を固めて、いわば戦闘服を着ているようなものだった。私は強く在りたかったのだ。影山に対して怯む気持ちを持ちたくなかった。
 影山の家の前についてインターホンを鳴らす。2回目とは言え、緊張するのは否めない。少しすると玄関の扉が開いて影山が顔を出す。

「早かったな」
「信号全部青だったんだよね。じゃあ、お邪魔します。そういえば今日お家の人は?」
「⋯⋯いない」
「え?」
「今日は誰もいない」

 さらりと影山はその事を口にした。玄関に立ったまま影山を見上げる。いないから何があるわけでもないとは思う。影山だって別に意識するように言っているわけじゃないし。けれど私の視線に、何を考えているのか気がついた影山はハッとすると気まずそうに視線を逸らして言う。

「あー⋯⋯嫌なら、外でも」

 今だけ。影山の頭の中が私で満たされているならいいのに。バレーのことなんて忘れて。そう思う自分に幻滅した。影山からバレーを取り上げたいわけじゃないのに、こんな風に思うなんて私はどうかしている。

「ううん。嫌じゃない」

 影山の目を見てはっきりと言った。驚いた顔を見せた影山は、前の時と同じように私を部屋に案内してくれる。その時と同じように部屋は片付いていて、ドアを入ってすぐに目にはいるラックにはバレー関連のものが並んでいる。それが影山を影山たらしめるものだと証明しているようで胸が痛んだ。何もない私には眩しすぎる。

「⋯⋯2年からは私、進学クラスだからもう同じクラスになることはないんだね」
「月島たちと同じか」
「中学のときも同じクラスになったことなかったし、結局この1年だけだったね。楽しかったけど、今年の修学旅行は一緒に回ったりは出来ないんだね」

 何にもない私の、せめてもの抵抗だった。ちょっとくらい頑張ったところで影山のようになれるとは思っていもいなかったけれど、せめて自信に繋がる何があれば良いと思って、漠然と大学進学を決めた。
 そうじゃないといつか影山と離れる日が来たときにますます自分をみじめだと思ってしまいそうで怖かった。専門学校ではなく大学を望んだのは、影山の苦手な学業に邁進することで自信を得たかったからなのかもしれない。

「連絡はいつでも出来るだろ」
「⋯⋯うん、そうだね」

 思えばそれは、別れを意識する第一歩だった。ファッションやメイク、勉強に料理を頑張っても満足がいかない。なにより影山に張り合うように頑張る自分が嫌だったし、情けなかった。

「あのさ」
「なんだ」
「⋯⋯私のこと、好き?」

 その質問をしたのは後にも先にもこの時だけだった。
 私の問いに影山は首を傾げる。どんな返答が返ってくるのだろうと緊張する私に影山は言う。

「キスしていいか?」
「⋯⋯え?」

 質問をしたのは私なのに。答えを得られない内に訊ねられた事に私は驚いたけれど「うん」と答える。頭に手を添えられ、唇が重なる。丁寧。多分そんな言葉が似合うんじゃないかと思えるくらい、動作は優しかった。

「好きなやつにしかしたいとは思わない」
 
 好きだから苦しい。
 好きだから辛い。
 好きだからこんな自分が余計に嫌になる。
 好きなのにどうして私はそんなことを思うんだろう。影山はいつも泣きたくなるくらい優しいのに。

(20.09.19)