劣等感。
 それを感じていると言っても、きっと影山は理解してくれないだろう。そして友達もわかってはくれない。考えすぎだと、気にしすぎだと言われるのは目に見えていた。
 でも、他の人には問題に思えなくても私にとっては大きな問題だった。少なくとも自分の事を嫌いだと思ってしまうくらいには。
 2年生になった私たちの教室は、ほとんど端と端に位置していた。校内ではすれ違うことが減って、会えると言えばお昼ごはんを一緒に食べる時くらいだ。
 影山が1年生の女の子に囲まれているのを見たのは、まだ桜が蕾の頃だった。2年のクラスの廊下の窓から見える位置にいて、影山は困ったようだったけれど、女の子たちはまるで憧れの人を見るような目で影山を見ていた。
 胸がざわつくのは嫉妬したからではない。
 きっと影山はこれから先もあんな風にたくさんの人に愛されて、期待されて、憧れの瞳を向けられて、大切にされる。そして影山も周りの想いに応えるようになるだろうし、高みを目指していつまでも鼓舞するんだろう。笑えるくらい鮮やかにそんな未来が想像出来てしまう。
 私はもうこれ以上自分を惨めに思いたくなかった。だから半ば感情に身を任せるように影山に伝えたのだ。それが高校2年生になってすぐ、桜の蕾がようやく開花しそうな穏やかな暖かい春の日のことだった。
 部活に向かおうとする影山に、どうしても大切な話があるからと無理やり呼び止めた。

「なんだよ。部活あるから時間とれねぇけど」
「⋯⋯大丈夫、手短に済ませる」

 そんなことを私がするなんてよほど珍しいと思ったのか、影山は話を聞いてくれる姿勢を見せた。誰もいない廊下の片隅で、窓から射し込んだ西日を背にした影山が少し眩しくて私は目を薄める。
 思い出したのは先日、影山の家に行った時の事。私といたこれまでの時間を楽しいと、幸せだと思ってくれていれば良いけど。

「⋯⋯ごめん、別れたい」

 本当の気持ちを誤魔化すかのように笑いながら言えば、影山は眉間に眉を寄せた。

「は?」

 その言葉は怒気を含んでいた。

「だから、そのままの意味」
「いきなりで何言ってんのか分かんねえ」

 そう。影山にとっては突然の事だ。だって私はそう言う雰囲気を一切出してこなかったんだから。狡い事をしている意識はあった。部活に行こうしている影山をわざわざ呼び止めて、人気のないところまで引き連れて放った言葉がこれなんだから。自分の事しか考えていない最低の行為だ。ますます自分の事が嫌になる。

「前から思ってた」
「俺、何かしたか?」

 私は頭を横にふる。影山は悪くない。駄目なところもない。
 そりゃあ、もっと会えたりデートできたり一緒に帰れたりすれば嬉しかったけれど。でもそれは根本的な問題ではない。
 駄目だったのは私の方だ。勝手に影山に距離を覚えた。もちろん影山にそんなつもりはなかっただろうし、私も本当はそこまで思う必要はなかったはずだ。そう頭で理解してても無理だった。心が耐えられそうになかった。
 私はバレーをしている影山が大好きで、多分それと同じくらいバレーをしている影山が嫌いだ。眩しくて、凄くて、何もない私とは全然違う。少しでも躓いたら私はすぐにでも置いていかれてしまう。手の届かないところまで影山は簡単に行ってしまう。それは憧憬と嫉妬が混ざり合った醜い感情だ。
 影山は世界と共に生きていくだろう。そんな影山の横に自分がいるイメージが一切湧かなかった。影山の支えになっている自分はどこにもいない。
 私は、いつか影山に嫌われてしまうのが1番怖かった。

「してない。影山はなにも、してない」
「なら余計意味がわかんねえ」

 でも私はそれをどう伝えれば影山に届くのか分からなかった。だってどんな言葉を使って伝えたとしても、影山の理解を得られるとは到底思えないのだ。それくらい自分がいかにバカらしいことに悩んで苦しんでいるのかもわかっていたから。

「本気か?」

 不機嫌そうに影山は言う。渋るような態度をみせるのが意外だと思いながら私は頷いた。

「……ごめんなさい」

 私は身も心も子供だった。私の言葉で影山がどれだけ傷付いたかなんて考える余裕もなくて、相手の思いを聞こうともしなかった。

「⋯⋯わかった」

 私の曲げない意思を感じたのか、影山は私の申し出を受け入れた。私はもう一度影山に謝って逃げるようにその場を去ろうとする。身体の真ん中の奥の方から得たいの知れない何かが込み上げて、息が上手く出来ない。私がこんな衝動を抱いて良いわけないのに。堪える私に、影山の声が後ろから届いた。

「おい。俺はそれでも名字が好きだ」

 この人に名前を呼ばれるだけで嬉しくなるのは、もはや魔法なのだと思う。
 影山の声が好きだ。サラサラな髪も、整った爪も、尖った唇も。午後の授業の眠たそうな顔。バレーをしているときは大きな子供みたいになるところ。不器用で、真っ直ぐで、飾らない人柄が好きだ。数えきれない好きがたくさんあるのに、私はどんどん卑屈になった。
 やっぱり、夜の連絡もう少し早く返事がほしかったな。もうちょっといろんなところに出掛けたかった。イベント事を二人で楽しみたかった。良い子のように振る舞っていたけど1度不満を認めればいろいろこぼしてしまう。
 もっと可愛ければ。もっと頭が良ければ。もっと絵が上手ければ。もっと歌が上手ければ。もっとスタイルが良ければ。もっと、もっと、私が自信に繋がる何かをもっていたら少しは違っていたのだろうか。

「⋯⋯私だって」
 
 それはもう影山には届かない。
 好きなのに。嫌いじゃないのに。見えない何かに怯えて押し潰された関係はもう修繕出来ない。月日が流れ、いつか大人になった私は影山といた日々を笑い話に出来るだろうか。答えはきっと大人になるまで分からない。
 影山は私の忘れられない人。じゃあ、影山にとって私はなんだったんだろう。少しの時間でも、こんな凄い人の特別な人間になれただろうか。その疑問の答えも分からぬまま、私は大人になった。
 あの頃から私はずっと影山の後ろ姿を見つめたままだ。

(20.09.19)