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いつのまにか雨音がして、雨が降りはじめた事に気が付いた。私を見つめる影山の瞳。雨音。そして時計の秒針。ここだけ世界から切り取られたみたいで心がざわめく。
「⋯⋯あの頃の私は、影山のことを好きだった分だけ自分のことが嫌いだった」
刻一刻と時計の針が進む中、今となって笑えるような当時の心境を影山に伝える。難しそうな顔をする影山はそれでも、あの頃の私の気持ちを汲み取ろうと必死に耳を傾けてくれていた。
「影山は私にとって凄すぎた。尊敬するには遠すぎて目標にするにもベクトルが違う。全然ね、フィールドが違うの」
「⋯⋯わかんね」
「まあ、だよねぇ。⋯⋯だってさ、バレーしてるときの影山ってもうそれだけで充分って顔してるんだもん」
「は?」
「恋も勉強も必要ありませんって。俺にはこれがあれば充分ですって。健全な高校生なら望むものも影山には必要なくて、バレーだけあればいいって感じなんだもん。そのくせ実力は兼ね備えててさ。将来を期待されても、女の子から黄色い声を浴びてもそんなの関係ないって。バレーを出来るその事が幸せだって。そういう影山がかっこよくて好きで、でもいつのまにかそういう影山を見てると焦るようになって、気が付くと影山と付き合ってる自分に自信なくして怖くなって逃げちゃった」
若かったのだ。何をするにも。学校という狭い世界で生きていたあの頃の私は、知らないことが多すぎた。
「まあそれは私の主観でさ、影山は影山できっと思うことがいろいろあったんだろうけどあの頃の私はそういうの察するなんて出来なくて。今もじゃあ出来るかって言われたら自信もってハイとは言えないけど、影山だって今に至るまでいろんな葛藤とか悩みとかあったはずだもんね。そりゃあ大学生の私と日の丸背負う影山とじゃあ全然見てる世界は違うだろうけど」
ずっと忘れられない恋だった。
嬉しさも喜びも悲しみも苦しみも、恋の全部を教えてくれた恋だった。名前を呼ぶ声。指先の体温。瞳に映る私。やっぱりそれは今思い出しても、特別と言う他なかった。
「俺は名字が思うみたいに特別じゃない。普通だ」
だから嬉しかった。あの日再会したこと。言葉を交わせたこと。背伸びをしてでも素敵な女性になったと思われたかった。気まずさもあったけれど影山がちゃんと私を覚えててくれたことが、なかったものにしていなかったことが嬉しかった。
「もっと言えば良かったのかな。こうしてほしいとか、こう思ってるとか」
「じゃあ今言え」
「え?」
「俺は今からでも知りたい。⋯⋯名字にとって良い彼氏じゃなかったってのはわかってる」
影山は私にとって良い彼氏ではなかったのだろうか。私にとって良い彼氏とはどんな彼氏だったんだろうか。私のために時間を使ってくれる人? サプライズをする人? 記念日に連絡をくれる人? 私はそんなことをしてくれなくても影山がよかった。私はそれをしない影山を嫌だとは思っていなかった。
「⋯⋯寂しくなかったって言えば嘘だし、影山が私のために時間を作ってくれたら嬉しいと思う。ただ、バレーを犠牲にして私のために尽くしてくれる影山が私の好きな影山かって考えたら絶対違うし、それはそれできっとそうさせてる自分が嫌になっちゃうだろうから」
「結局自分のこと嫌になるのかよ」
「そうなっちゃうみたいだね」
影山が私を見つめる。大人になれば少しは影山の気持ちも理解できるようになると思っていたのに、今でもまだ影山の考えていることはわからない。
「俺の頭ん中は、バレーと、そんでお前で大抵を占めてた」
「え?」
「バレーしてるときは⋯⋯まあ、思い出したりはしねぇけど、割りと普通にお前の好きなもんとか考えてた」
「そう⋯⋯なの?」
影山は私がいなくなったところで悲しんだりはしないだろうと思っていた。引き留めたり、未練を持ったり、何かを後悔したり。私がいなくなっても、影山には何の意味もないんだろうと私はずっと思っていた。
「俺は多分お前のこと、自分が思ってるよりも好きだったんだと思う」
でもふとした時に私の影が過るなら、狡いけれど私はそれを嬉しく思う。
「それをなんつーか⋯⋯気が付けなかった。悪い」
思わず吹き出して笑ってしまった。
上書き保存が出来なかったこの恋を、それでも私は1度だって後悔したことはない。影山もそうであってくれればいいのに。
「まあでもさ、テレビで影山が映ってたり月バリの表紙にいたら凄いって思うし、なんだかんだ遠い人なのかもなぁと思うけどね」
「はあ? 近いだろ。ほら」
影山が腕を伸ばして少し雑に私の頭に手を置いた。
そういう話じゃないと私はまた笑ってしまいそうになる。
「そういうことじゃないんだけどなあ」
「意味わかんねぇ」
「いいよ、わからなくて」
「バカにするな。言え」
「良いんだよ。それも私の好きだった影山なんだから」
ああ、私。不意に思った。もうあの恋を過去に出来る。上書きはしないけれど私の大切な人生の一部として名前をつけてちゃんと大切にしまっておける。
大人になった影山の瞳に、大人になった私が映る。化粧をした私。髪の伸びた私。恋はもう、行く末にしかない。
「⋯⋯私、付き合わなければ良かったなんて1度も思わなかったよ。影山を好きになったことも、影山が好きになってくれたことも、悩んだことも楽しかったことも全部が大切だって思ってる。後悔はしてないから」
影山が私を見つめる。
「⋯⋯俺は」
影山はいつかの日のようにそこで言葉を絶えた。
影山が何を言いたかったのかを知るのはずっとずっと先のことだった。
(20.09.23)