駅まで向かう道のりは長くも短くもあった。影山が隣にいる感覚をゆっくりと思い出しながらたどり着いた駅は、休日の午前中だからか人が少ないように見える。
 
「じゃあ、送ってくれてありがとう」
「連絡するから連絡先教えろ」
「えっ⋯⋯あ、うん」

 部屋に戻って自分の気持ちを落ち着かせなければ何も解決しないと思う私にとって影山の申し出は驚くものだった。真相を知るためには影山ともう1度話す必要があるということはわかっていたけれど、影山のほうから連絡先を交換しようと言われるとは全く予想していなかったのだ。
 素直にスマホを取り出す。自分のスマホに『Tobio Kageyama』と表示される名前は自分の知らない人のように思えて仕方がない。
 不思議な気分のまま、今度こそ別れを告げて電車に乗る。2度乗り換えはしたけれど、私の住んでいるマンションからはそう遠くなかった。
 1時間もしないうちに部屋にたどり着いて、私は真っ先にベッドに身を投げた。自分の部屋についてようやく疲れがどっと押し寄せてくる。
 影山を思い出す。変わったところ。変わらないところ。知っていること。知らないこと。私はこんなにも影山のことを考えてしまうと言うのに、きっと影山はもう私のことなんて頭の中にないんだろう。そう思うと、無性に悔しい。

「ああ、もう⋯⋯少しくらい動揺してくれたっていいと思うんだけどなあ」

 何が起こったのかを怖くて聞けない私が言える立場ではないと言うのはよく分かっている。でも愚痴のように言わないとやっていられない。だって私は昨日影山とエレベーターで鉢合わせした時とても動揺したし、そして今も格好いいなと素直に思ってしまったのだ。





 夜になってスマホに『Tobio Kageyama』という文字が表示された。煮え切らない気持ちのまま過ごした今日と言う日にくる影山からの連絡はまた、私の心を動かす。

『これ、落ちてた』
「えっやば」

 その言葉と共に送られた写真には私が実習時に使うIDカードが写っていた。これはまずい。月曜日までに受け取らないと大問題になる。

『ごめん。月曜日までに受け取りたい。影山の大丈夫な時間に行くから取りに行ってもいい?』
『明日の夜でいいか?』
『いつでも何時でもどこでも行く』

 まさかこんなに早くまた会うことになるとは思ってもいなかった。けれど今はそれよりも失くしてはいけないものを忘れてしまった自分に腹が立つ。影山に動揺して、自分の立場を忘れて。これじゃあ、あの頃の自分に申し訳が立たない。
 約束を取り付け、鏡に映る自分を見つめた。影山とどうなりたいわけでもない。もう一度恋をしたいわけでもない。だけど今の私はあの日の私の延長だ。だから、忘れられない。
 今の私はあの頃よりも自信に溢れている。気後れもしない。もうあの頃みたいに影山だけが特別だなんて思わない。そう思えるようになったから。だから何かを期待するわけではないけれど、可愛いと、きれいと、あの頃よりも素敵になったと、少しでも思われたいと望んでしまった。この感情の名前は、知らない。





 翌日の夜、近くまで来たと連絡すればすぐに返事がきてその場を動くなと言われた。マンション前で待っていると影山はすぐにやってきて私の名前を呼ぶ。

「悪い、こんな時間で」
「ううん。忘れたのは私だから。⋯⋯じゃあ、私はこれで」
「待て。駅まで送る」

 カードを受け取ると昨日と同じ台詞が届く。去ろうとした私の腕を掴んだのは無意識なのだろうか。私は少し驚きながらやんわり断りを入れる。だってもうこれ以上影山といると私の身が持たない。

「いいよ。遅いし、悪いし」
「遅いからだろ。俺もコンビニに用事あるから嫌だっつってもついていく」

 そうまで言われてしまっては断れないと私は頭を縦に動かした。掴まれた腕が離れていって、まだ春先だと言うのにそこだけが異様に熱い気がする。

「髪、伸びたな」
「え?」
「前は短かっただろ」
「それを言うなら影山だって分け目変えたよね」
「俺のはたいしたことないだろ」
「そう? センター分け見たことなかったから新鮮だなって思ったけど」

 案外、普通に話せるものだった。
 思うことも、思い出せるものもたくさんあるのに私たちには今という瞬間だけしかないんじゃないかと思ってしまう。少しだけゆっくり歩く私に影山は歩調を合わせてくれる。
 すれ違う人の声。お店からもれる光。少し煩いバイクの音。夏を待つ春の匂い。

「悪い。ここで待っててくれ」

 コンビニの入口で立ち止まった影山が言う。

「入るか?」
「あ、じゃあ私もう駅まで1人で平気だから」
「ダメだ。待ってろ」
「まあ⋯⋯そんなに言うなら待つけど」
「動くなよ」
「大丈夫だよ」

 そう言って影山は1人でコンビニの中に入ってしまった。馴染みのある入店音がここまで届いて残された私は大人しく影山の帰りを待つしかなかない。手持ち無沙汰で往来する人を眺めていたけれど影山は5分もかからずにコンビニから出てきて、私が何かを言うより先に手に持っていたコンビニの袋を私に差し出した。

「やる」
「え?」
「受け取れ」
「う、うん⋯⋯」

 訳もわからぬまま影山の言葉に従う。少し重たい袋の中身を確認しようと中を覗くとチーズケーキが入っていた。

「来週誕生日だろ」
「覚えてたの!?」
「覚えてたら悪いかよ」
「そうじゃなくててっきり忘れてるものかと思って」

 誕生日だからとケーキを渡してくれたことや、そもそも誕生日を覚えてくれていたこととか、私の予想をはるかに越える行動に、今の影山が理解出来ない。

「⋯⋯ありがとう」
「別に」

 いくら考えてもわからないだろうけど、沸々と込み上げる感情が『嬉しい』というものだということは自分でもしっかり理解できていた。

(20.09.13)