「おい確認くらいしろ。無用心だろ」
「あ⋯⋯うん、ごめん。いやそうだけどそうじゃなくて。なんで影山がいるの?」
「お前の友達に頼まれた」
「あー⋯⋯納得」
「入るぞ」

 友達的にはある意味気を利かせたつもりなんだろうけれど。いや、面白半分でもあるかもしれない。後で連絡しないとと頭を抱える。
 勢いを殺してドアが閉じられ、中に足を踏み入れた影山が眼前に立つ。玄関には10センチほどの段差があると言うのに、影山はそれでもまだ高い。
 ずっと届きたくても届かなかった距離に少しだけ近づいて、私はつい手を伸ばしてしまいたくなる。熱のせいだろうか、いつもより変なことを考えてしまうなと思いながら私は影山を見つめる。
 そうか、今部屋の中に影山を招き入れたのか。私は急にそれを理解した。理解すると部屋の空気がガラリと変わったかのようだった。

「熱は?」
「夜、まだ測ってない。朝よりはマシだと思うけど」
「飯食ったか?」
「冷蔵庫の中何も無くて食べてない」
「何でもいいから食え。そんで薬飲んでまた寝ろ」

 当たり前のように私の横を通りすぎて部屋の中に入っていく。

「あの⋯⋯」
「頼まれて適当に食えるもん買ってきたら、お前は横になってろ」

 元々約束もしていたし、人に頼まれたからそうしているだけなのかもしれないけれど影山がこうやって甲斐甲斐しくしてくれる事が意外だった。知らない間に知らない人になってしまったみたいだ。そんなことを思える立場ではないと言うのにそれを寂しいと感じてしまう。

「⋯⋯あのさ」
「なんだ」
「今日、ごめん。⋯⋯その、来てくれて助かった。冷蔵庫の中無いし、でも買い物行くにはしんどいから」

 影山は何も言わなかった。買い物袋の中身を冷蔵庫に入れる仕草を私は見つめる。あれは、劣等感だった。高校生の頃、影山に覚えたのは嫉妬ではなく劣等感。置いていかれる焦燥感。そういう類いのものだったと、大人になって思い返したときようやく気が付いた。あの頃はいろんなものに機敏で、繊細だった。今となってはどうでもいいことも、たいしたことないことも、あの頃の私にとっては世界を揺るがすことと同じだった。

「⋯⋯別に。それより早く布団に戻れ。治るもんも治らねーだろ」

 言われた通りにベッドに戻る。

「食欲は?」
「少し空いてるけど食べる元気ない」
「わかった」

 影山はコンビニの袋からゼリーを取り出して私に渡す。薬も買ってきてくれていたみたいで、私がゼリーを口に運ぶ横で薬の服用書を読んでいる。ただの元彼女にする行為としてはいきすぎている気もするけれど、頼る相手もいない私にとって有り難いことに変わりはなかった。

「治ったらお礼する」
「そういうつもりでやってるわけじゃねえ」
「やるよ。約束だってドタキャンしたようなものだし」

 私たちの間にある糸は細くて脆い。油断すればプツリと簡単に切れてしまう。私はそれを、せめてゆっくり切れる糸にしたかったのかもしれない。

「だったら⋯⋯」
「あ、何かリクエストある?」
「だったらさっさと体調治すようにしろ。じゃないと飯行けないだろ」

 それはなんのお礼にもならないけれど。そう思いながらも影山が私とご飯に行く約束を流すつもりはないことに驚いた。
 自分の部屋に影山がいて看病してもらって普通に会話をしている。現実なのに夢を見ているみたいだ。熱が見せる幻とさえ思える。

「影山」

 これが現実であるということを確かめるように私はその名前を呼んだ。

「どうした」

 返ってきた言葉は、想像よりも優しい声色だった。

「⋯⋯ごめん。なんでもない。呼んでみただけ」
「病人はおとなしく寝てろ」

 そっと私のおでこに影山が大きな手のひらを乗せた。その行為は安心感を呼び寄せる。影山の手の冷たさ。瞼に落ちる影。誰かが居てくれる心地よさ。またゆっくりと眠気が訪れる。
 影山にうつしたらいけないし早く帰りなよと言いたいのに口を動かすのが面倒になる。私は知っている。この優しさを。ずっと昔から影山はこんな風に優しかったのだと、私はとっくに知っているのに。






 カーテンの隙間から漏れる太陽の光に起こされる。
 朝になったことを理解して部屋を見渡した。いつ帰ったのかはわからないけれど影山はいない。
 枕元に置いてあった体温計で熱を測ると無事に平熱に戻っており、今日はちゃんと行動できそうだ。
 影山はテーブルにあったゴミもちゃんと片付けてくれたのか部屋の中はいつも通りで、昨日ここに影山がいたことがやはり嘘みたいだと思う。
 それでも昨日、影山の体温を感じたことはしっかり思い出せる。おでこに置かれた手のひらの感覚が鮮明に甦ってきて私は羞恥心に見舞われた。

(ああ⋯⋯せめてもっと可愛い部屋着にしておけば良かった⋯⋯)
 
 後悔先に立たず。着替えようと起き上がると、机の上に何かが置かれてあるのに気が付く。薬とメモ用紙。手に取ると、決して丁寧とは言えない文字が紙の上で踊っていた。慌てて書いたのだろうか、その様子を想像するとなんだか笑えてくる。

『いきなり来て悪かったな。帰るとき玄関にある鍵使う。郵便受けの所から部屋の中に入れるから安心しろ。あと無理はするな』

 私たちの糸はあとどれだけ保たれるのだろう。

(20.09.14)