『おはよう。朝早くにごめん。あと、昨日は本当にありがとう。無事に熱は下がったからもう大丈夫』
『そうか』

 時刻ははまだ朝の6時を過ぎた頃で、早いし寝ているかもと思ったのに意外にも返事はすぐにきた。考えてもみれば現役のスポーツ選手なんだし朝のトレーニングをしていたりするのかもしれない。高校生の時だって朝は走っていたし、影山はバレーボールに対して妥協をしないストイックな人だったから。そのルーティーンは今も続いていてもおかしくはない。
 昨日、影山はただ頼まれたからと言うだけであそこまでしてくれたんだろうか。何か違う意味が少しでもあったんだろうか。聞きたいけど、今の私じゃ聞けない。

『飯行く約束覚えてるか』
『うん』
『復活したなら行くぞ、今日』
「今日!?」

 影山の言葉に思わず声を出して驚く。
 割りと強引に事を進めるなと薄々感じてはいたけれど、影山は何か焦っているんだろうか。そこまでして私とご飯に行きたい理由が影山にはあるんだろうか。

『今日?』
『予定あったか』
『予定はないけど⋯⋯』
『じゃあ今日。夜に迎えに行く』
『わかった。学校終わったら連絡入れる』

 私にはある。あの夜の事を話したいのは言わずもがなだけど、影山の中にあるかつての私を拭いたかった。上書き保存出来ないあの恋を私はもう奥底にしまいたいのだ。
 なのに影山はケーキを買ったり看病をしてくれたりご飯に誘ってくれたりする。それらは私にとって全然普通のことじゃない。だから気になってしまう。気にしたくない影山のことを、知りたくなってしまう。

「⋯⋯じゃあアナウンサーとの記事はどういうことなんですかね」

 無愛想な影山の優しさは、昔も今も私の心を揺さぶる。でも私と影山には互いの知らない時間があるから、私は影山をどこまで信じて、そしてどこまで近づいて良いのか分からない。
 テレビの電源を入れてシャワーを浴びるために着替えを手にする。朝の情報番組が軽快な音を出してCMに移行したと思ったら、画面に映された影山のカレーCMに私はまたやり場の無い感情を覚えた。

「そばにいなくてもいるとか狡い⋯⋯」






 目の前で肉が焼けるのを見つめながら、私は服に臭いがついてしまうことを心配していた。
 学校が終わったあと迎えに来てくれた影山が連れて来てくれた場所は都内にある焼き肉屋で、まさか焼き肉に行くとは思っていなかった私は今日に限ってクリーニングに出したばかりの洋服を着ていたのだ。だって病み上がりに肉を食べるとは思わない。

「まさか焼き肉とは思わなかった」
「寝込んでたんだから肉食わないと元気出ないだろ」
「あ、逆にね」
「逆に?」
「ううん。胃に優しいものの方に行くかなと思ってたから」
「嫌だったか?」

 肉の焼ける音と匂いを嗅いでから答える。

「んーん。お腹すいてきたら嬉しい」

 強引だけれど、影山なりに私の事を考えてくれていたと思うとこれはこれで良い選択だと思えた。あんなに色々と考え込んでいたのに普通に話して普通にご飯を食べている。
 大きな口を開けてお肉とご飯を頬張る様子が可愛いかもしれないと思った。私が知っている影山は大抵バレーの事ばかりでそれ以外はたいして興味がなくて、何を考えているかわかりやすかった。きっと今も頭の中の大半はバレーボールのことで埋め尽くされているんだろうけれど、それでもどうしてあの日を境にこんなに関わりを持つようになったのか自分でもわからない。あの夜に意味を見出だしたいのはきっと私だけなのに。
 
「食わないのか?」
「ううん。食べる」
「体調まだ良くねえのか?」
「影山が来てくれたお陰で全快だよ」
「⋯⋯なら、いい」

 影山にとっては別になんでもないのかもしれない。影山にとっえバレーボール以外のことは多分そんなに重要じゃない。だからこれまでのことも、今日のことも、きっとどうにもならないこれからのことも影山にとっては意味のないこと。私が考えすぎているだけ。それに、そう思う方が多分楽だ。

「何て言うかさ、昨日のこともそうなんだけど、今になって影山とこうやってご飯食べるなんて想像もしなかったな」

 そう言うと!箸を置いた影山が何か言いたげな表情で私を見る。煙が私たちの間に割って入るように立ち上ぼり、網の上でお肉が音を立てている。慌ててお肉を裏返すと、影山はおもむろに言った。

「⋯⋯お前、この間の事なにも思い出せてないのか?」

 突然の本題に私は言葉に詰まる。手にしていた割り箸をお皿の上に置いて、私は沈黙の後、言葉もなく頭を上下に動かした。思い出せてないし、思い出すことを放棄していた。
 だって服は着ていたしとか、影山はそう言うことしなさそうだしとか、何かしらの理由をつけて逃げていた。

「⋯⋯あの夜、私たち⋯⋯やっぱり何かあった?」

 影山を見上げるように見つめる。再びの沈黙とお肉が焼ける匂い。私たち以外の席は盛り上がりを見せているのに、忙しそうなのは今にも焦げそうな肉だけだ。
 影山は一度深いため息を吐いてから言った。

「ねぇ」
「え?」
「名字が考えてるようなことは何も無い」

 数回瞬きを繰り返すと、周りから隔離されていた感覚がなくなる。慌てて焦げた肉を網から救い出して、影山の言葉をもう一度頭の中で反復した。そうか。何もなかったのか。

「まあ、そうだよね。そうだよ、そう。うんうん。だよね」
「安心したか」
「安心⋯⋯」

 安心なんだろうか、これは。残念に思ったわけはないけれど、安心とも言いがたい複雑な感情だ。

「⋯⋯だってほら、影山は彼女? いるらしいし、やっぱり良くないじゃん何もなかったとしても」

 私の言葉に影山は眉間にシワを寄せた。

「彼女?」
「少し前にネットニュースで読んだけど」
「ああ。あれか」

 否定しない影山に、ほら。やっぱりと思う。

「あれは違う」
「違う?」
「上手いことやられたなって宮さんに言われた。彼女はいねえ」
「上手いことやられた⋯⋯」

 火のない所に煙は立たぬと言うけれど、有名人は写真切り取られたとかハニートラップとかあるって聞くし。影山はバレーボール界では有名だし、あれもその類いなんだろうか。

「とにかくお前はいないってことだけ覚えてろ」
「ええ⋯⋯わかった」

(20.09.15)