閉められた玄関のドアを背にして、眼前に影山の顔が迫る。
 ああこれはこの前、影山が最初に部屋に来た時と同じだ。でも今はどうして影山がここにいるんだっけ。

「あの、影山?」
「なんだよ」
「何でここにっていうか⋯⋯近くない?」
「ダメか? 近いのは嫌か?」

 だって影山の瞳に映る自分がわかるくらい近いんだよ。
 その中にいる私は明からに動揺した顔をしていて滑稽だ。影山の吐息がかかって、これは、このまま顔が近付けば私たちの唇は、と今出来る最大の想像力を働かせた。
 ああ、触れる。まだ大人になりきれなかった頃に交わしたあの感触を思い出しながら強く瞼を瞑った。

「ま、まだダメ!」

 音が聞こえる。自分の声と共に目を覚まして、部屋に響き渡るアラームの音を止めた。

「⋯⋯最悪だ⋯⋯」






「そう言えばこの前名前のところに影山くん行った?」

 実習終わりに会う約束をしていた友達が言う。そうだ、そうだった。あの一件はこの子の仕業だったんだと今朝見た夢を思い出す。 注文していたパスタがやってきて、気を紛らわすように口に運んだ。

「びっくりしたんだからね私」
「おお、行ったか影山くん」
「なんかあった?」
「ないよ! あるわけないじゃん!」

 私の様子に、友達は1度謝ってから「でもさ」と続ける。

「影山くんて名前にまだ気があったりするんじゃないかなって思うんだよね」
「いや⋯⋯そう?」
「飲み会の時名前の事気にしてる感じだったし、そもそも最後送ってあげるってやっぱり多少の気持ちはあるんじゃないの?」
「そうかなあ」
「元カレとは言えさ、わざわざ看病だってしなくない?」
「それは頼まれたからじゃない?」
「影山くんそんな律儀だっけ? お人好しってわけでもないし」
「ではないけど⋯⋯」 
「少なくともなんらかの気持ちは名前に持ってると思うよ」
「なんらかの気持ち⋯⋯でももう卒業してからも結構経ってるし」
「再会して気持ちが再燃したとか!」
「ええ⋯⋯ピンとこないな⋯⋯」

 だって私はあの頃、影山のことを酷く傷付けた。そんな私がまた影山に気にして貰える資格なんてない。でも今朝見た夢が私の深層心理の表れなら、私は影山とどうにかなることを何処かで期待してしまっているんだろうか。

「影山くんの本音はわからなくてもさ、2人ともお互いが初めての彼氏と彼女でしょ? それってやっぱり少しは特別なんじゃないの?」
「特別⋯⋯」
「良くも悪くも忘れられない相手ってこと」
「それは確かにそうかもなあ」
「今とあの頃は違うからさ。もし進展あったら教えてよ」

 果たして進展なんてあるのだろうか。でも短期間でこれだけのことがあったんだし、もしかしたら何かあるかもと思ってた私のそれは杞憂に終わった。
 それから1ヶ月が経っても影山から連絡が来ることはなかったのだ。それまではあんな風に連絡をしてきたのに突然だ。むしろ私何かした? と思うと自分からも影山に連絡することも出来ない。
 簡単に、そして呆気なく薄れて行く関係に虚しさを覚える。私たちの糸はやっぱり脆かった。






 梅雨が終わり夏本番がやってくると、私もまた影山のことを忘れて過ごす日々となった。無事に実習も終わり夏期休暇に入ったけれど、国家試験がある私は時折学校に行って勉強したり模試を受けたりしていた。おおよその大学生は内定も決まって最後の夏を満喫しているだろうけれど、私には縁のない話だった。
 セミの声が絶え間なく聞こえる。どんなに特別でも、終わるものはある。あの短い日々はまた私の思い出の中に薄れてゆくのだ。

「名字、模試終わったら暇?」
「自己採点する」
「じゃなくて夜。一緒にご飯食べに行かない?」

 そう誘ってくれたのは同じゼミの男の子だ。同じゼミだからもちろん仲が良いし断る理由もないと私は快諾した。
 その夜、模試が終わって自己採点も済ませるとその子のオススメのお店に向かう。ああここ影山の住んでいるところの近くだと分かると私は急に緊張する。別に鉢合わせするなんてないとは思うけど、忘れかけてた日々が思い起こされる。
 それでも平然を装ってご飯を済ませたら帰り際その男の子に言われた。

「あのさ。多分気が付いてると思うんだけど」
「え、なに?」
「おれ、名字のこと良いなって思ってて」
「⋯⋯うん」
「俺と付き合って欲しいんだけど」

 途中からなんとなく、今日はこれを言うために誘ってくれたのかなとは思っていた。その予想は当たっていたのか。緊張気味に私を見つめるその子の瞳を見返した。影山みたいに高すぎない身長は見上げるのにちょうどいい。性格だって周りに気を使えるし、何より一緒にいて気を使うわけでもない。
 良いところばかりしか思い浮かばないのに、どうして私は影山と比べてしまうんだろう。最低だと思いながら、私は返事を迷った。彼の好意に甘えて受け入れれば私はこの感情を捨てきれるんだろうか。

「わ、私⋯⋯」
「何してんだ、名字」

 聞こえてきた声に自分の耳を疑った。向かいからやってきた背の高い男性は影山だった。 

「なんで⋯⋯ここに?」
「部屋の近くにいたらおかしいかよ」
「そうだった⋯⋯」
「名字、知り合い?」
「ごめんね。高校の同級生で⋯⋯それで、えっと、友達」

 タイミングは良かったんだろうか、悪かったんだろうか。1ヶ月も連絡をとっていなかったのに、どうしてこの瞬間対面してしまったんだろう。影山の知らない男の子といる自分を見られたくなくて、私は慌ててその場を去ろうとする。

「ごめん、影山。私たち行かないとだから」
「おい、待て」

 どうしてそこで私を引き留めようとするの。

「行こう」
「え、でも⋯⋯」
「大丈夫だから行こう」

 男の子の背を押して駅の方へ向かおうとする。 

「待てって言ってるだろ」
「わっ」

 瞬間、影山は私の腕を掴んで自身の方に手繰り寄せた。抱き締められた感覚に、頭が真っ白になる。何がどうなってこんなことになった? 現状を理解しようとする私に、頭上から聞こえる言葉が頭の中で響く。

「すいません。俺こいつと話があるんで」
「名字が困ってるけど」

 わからない。この状況も。影山の行動も。影山は諌めるように言われても私を離す気はないようだった。

「俺は、名字の友達じゃないです」
「え?」
「行くぞ」
「あ、あの、後で連絡するから! ちゃんと返事はするから!」

 影山の力に勝るわけもなく強引に引かれる腕。せめてのも抵抗だと大きい声で放った言葉は都会の夜の闇に消えていった。

(20.09.15)