もう駄目だ。私、今の仕事向いてない。やりたい仕事と向いている仕事は別らしい。転職して地元に帰るのもいいかもしれない。もう兵庫とはさよならするのが得策なのかもしれない。上司に嫌味を言われても好きだから頑張ってきたけれど、もう私は頑張れそうにない。
そう思っていた時に出逢ったのが「おにぎり宮」だった。
電車を降りて、改札をくぐって商店街の一角を曲がったところにそのお店はあった。コンビニや薬局に寄らない日はこの道を通ることが多いけれど、いつもは気にした事がなかったこのお店の前で足を止めたのは自分でも不思議だった。
お店から漏れる柔らかい光。少しあいたドアの隙間からはスーツをきたサラリーマンの後ろ姿が見える。夜も遅いと言うのに店内からは良い香りが漂ってきて、その匂いにつられるように私の足は店内へと向かっていた。
「いらっしゃいませ」
「こ、こんばんは」
「お持ち帰りですか? 店内で食べてかれますか?」
「えっと⋯⋯じゃあ、店内で」
店内は至ってシンプルなつくりで、サラリーマンの男性が1人座っているだけであとは誰もいなかった。壁にメニューが書かれた紙が何枚か張ってあり、その隣には営業時間の記載がある。
新しくも古くもない内装はどちらかと言えば懐かしさを感じる類いのもので、小さい頃に祖母がいる田舎で行った定食屋を思い出した。きっと朝になれば炊き立てのご飯の匂いで充たされるのだろう。そんなことを容易に想像できてしまうくらい、お店にはそれらしい雰囲気があった。
「あ⋯⋯時間」
そう言えば今って何時だったっけ。と腕時計を見る。閉店時間10分前を指す時計に私は慌ててお店の人を見る。
「時間なら気にせんで座ってください」
そう言ってくれるのなら。とその言葉に甘えてカウンターに座ると、すぐに温かいお茶が出された。
「注文決まったら呼んでください。ゆっくり考えてええですから」
「あの」
「はい」
「じゃあ、あの、お兄さんのおすすめで」
優しい言葉に思わず呼び止めてしまい、そう言った。
初めて入ったお店だし、何が一番美味しいのかわからないし。それに、穏やかさが充満した店内で、優しそうなこの人がおすすめするものはなんだろうという興味が湧いてしまった。
「ほんなら少々お待ちください」
このお店は一人で切り盛りしているんだろうか。私の注文を承った後、先にいたサラリーマンの会計を済ませてカウンターの中へ戻っていく。
時計の秒針の音と、お兄さんが料理をする音。余計なものは何一つない空間に私はただ安心感を覚えるしかなかった。
程なくして、お兄さんのおすすめの逸品が運ばれてくる。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
海苔の巻かれていない小さめのおにぎりと卵焼き。隣にある小皿には2種類のお漬け物が置かれて、この時間に食べるには罪悪感を感じないちょうど良い量だと思った。
「そのままおにぎりで食べてもええんですけど、良かったらおにぎりを茶碗に移してお茶漬けにしてみてください」
お兄さんは急須とご飯茶碗、そしてお茶漬けに入れるための具材を違うお盆に乗せてテーブルの上に置いてくれる。
「じゃあお茶漬けで頂きます」
ここまでしてもらったのだからと思い、手を合わせておにぎりのお茶漬けをつくる。淹れたての新鮮なお茶の香りが広がって、茶碗の中でおにぎりがほどけていった。
「ツーンとしたの平気ですか?」
「え、ツーンとしたの⋯⋯?」
「今日採れたての山ワサビ貰ったんですけど、乗せてみます?」
ああ、この人きっとこの仕事が大好きなんだろうなあ。
初対面でもわかってしまうくらいに、その人からはこの仕事を愛している様子が見てとれた。いいな。好きな仕事を笑顔で出来るの、いいな。山ワサビよりも先に私の心臓はツーンとなる。
「じゃあ、ぜひ」
言えば、お兄さんは山ワサビをすりおろして添えてくれた。
お店に入る前はそんなにお腹も空いていないと思っていたはずなのに、美味しい食べ物の香りを嗅ぐとどうしてこんな急に空腹を感じてしまうんだろうか。
「⋯⋯いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
優しい声を浴びながらお茶漬けを口に運ぶ。程よい温度のお茶に粒の立ったご飯。美味しいのなんて食べる前からわかっていたはずなのに、舌の上で感じる味は想像の何倍にも膨れ上がっていた。風味が広がって鼻腔から抜ける。山ワサビの辛さはお茶の渋みが上手く消しているのに、ピリリとしっかり全体の味をまとめているのがわかる。
「美味しい⋯⋯」
「せやろ?」
あ、美味しい。幸せだ。
単純にそれだけを思って、胸が締め付けられた。そう言えば最後に誰かの手料理を食べたのっていつだっけ。それどころか最近は忙しくて自分でもまともにご飯をつくっていなかった。
得意気に笑うお兄さんの顔を見ているとここ何日も感じていなかった幸福感がやってきて、私は張りつめていた糸が緩んでいくのを感じた。
(20.09.10)