その味を噛み締めながら私の中の緩みきった糸は違う感情をもたらす。
(私、もう少しだけなら頑張れるかもしれない)
そう思うと同時に、瞳がじんわりと熱くなって涙がすぐそこまでやってきているのが自分でもわかった。
だめ。泣くな。びっくりさせてしまう。変なやつだって思われちゃう。そうは思っているのに涙はもう後戻りできないところまできていた。
頬を伝った涙はぽたりと木造のテーブルにシミをつくる。
「すみません⋯⋯。ごめんなさい」
「ええですよ。これ、使うて下さい」
泣き出した私を見て、その人は動揺するでもなく近くにあったティッシュケースを差し出した。きっとその優しさがまた私の涙を誘発しているということを知らないんだろう。
「⋯⋯私仕事に行き詰まってて、もうダメなのかなって辞めようかなって思ってて、そんな時にこのお店入ってこんな美味しいご飯出してもらえて、そう言えば手作りの食べ物食べるの久しぶりだなって思って、美味しいもの食べるとこんなに幸せな気持ちになれるんだって気がついて、そしたらもうちょっとだけなら仕事頑張れる気がして⋯⋯そう思ったら急に涙出てきてしまって、ごめんなさい」
自分でも長いと思ってしまうような言い訳をお兄さんは聞いてくれる。
「謝らんでください。そう言ってもらえて嬉し⋯⋯いや、泣いとる女の子に嬉しいはアカンな。なんやろ、美味しい言うてくれたんは嬉しいけど、泣くんは別におかしいことやないし、ここには俺しかおらんのやし、好きなだけ泣いたってええよ⋯⋯って感じや」
お兄さんの言葉に思わず笑いが溢れてしまいそうになる。私はもう女の子と呼ぶには怪しい年齢だけど、この人からみればそうなのかもしれない。暖かくて、優しくて、幸せが集う場所。きっとここはそういうお店なんだろう。
「ハッ⋯⋯いや、今のセリフ、セクハラやないです?」
「えっ」
「いや、ちゃうんです。そういうつもりで言ったわけやないんです。そんなコンプライアンスに反するようなことは一切あらへんで⋯⋯」
「大丈夫です」
お兄さんの言葉を遮るように言う。突然慌てたその様子を面白いと思ってしまったけれど、どちらかと言えば私の方がお客という立場を利用した小言愚痴を聞いてもらうパワハラになってしまうんじゃないだろうかなんてことを思った。
冷めても美味しさの変わらない、残りのお茶漬けを食べきる。お漬け物、ダシ巻き卵。どれをとっても最高に美味しいという言葉しか思い浮かばなかった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
やっぱり少し田舎のおばあちゃんの家にいるときのような気分になると思いながら、長居してしまう前にとお会計をお願いする。
「今日は、支払いはサービスするんでええですよ」
「サ⋯⋯いや、でも」
「もう誰もおらんし、それにほんまはあれメニューにはあらへんで値段なんてないねん」
「えっ」
「お姉さん入ってきた時から破棄のない顔しとって、今にも倒れそうやったから、なんかええもんないかな思て出したんがあれなんです。やから今日はええですよ」
私はそんな顔で入店したのか。お兄さんの気遣いに感謝するよりも先に自分の身なりの酷さに絶望してしまう。
「⋯⋯でも、もうちゃんと元気でました。お兄さんのつくってくれたご飯が美味しかったので」
そう言うとお兄さんは満足そうに笑った。
「ほんならまた来てください。仕事辛くても、辛くなくても美味しいもん出すんで、お腹すいたらいつでも食べに来てください」
入った時から顔の整ったお兄さんさんだなとは思っていたけれど、笑ってそんなセリフを言われたらときめかないわけにはいかなかった。
「⋯⋯また来ます。また元気をもらいに来ます」
この人がつくる美味しいご飯には人を幸せにする魔法がかけられているんじゃないだろうか。なんて年甲斐にもないことを考えた。でもそう思うくらい、あのおにぎりには魅力が詰まっていた。
財布を鞄にしまって、軒先まで見送ってくれたお兄さんにお辞儀をする。「おにぎり宮」の看板を照らすライトはもう電池が切られていて店じまいを物語っていた。
あのお兄さんが「宮さん」なんだろうか。同年代だとは思うけれど、自分で店を立ち上げたんだろうか。それとも従業員の1人なんだろうか。深まる夜。家へと続く道で私はおにぎり宮のことばかりを考えていた。
(星が綺麗だ⋯⋯)
職場を出たとき。駅を降りたとき。お店に入るとき。全然気が付かなかった頭上にある輝きに気が付く。
明日はきっとよく晴れる。
また明日から、私は辛い毎日を少しだけ頑張るんだろう。
(20.09.20)