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「待って。無理無理無理。衛輔くん絶対に手離さないでね!? 絶対だよ!?」
「離さないけど離してくれっていう前フリにしか聞こえなくなってきた」
「衛輔くん!」

 ぷるぷると震える足でゆっくりと前に進む私の手を衛輔くんは優しく握る。第一歩で転びそうになった私は、その直前の浅はかな考えをすぐに捨てた。やっぱり誰かに手を繋いでもらわないと無理。

「これが噂の産まれたての子鹿か」
「時間をくれればなんとか、多分……きっと! でも慣れるまではそばにいてね。あと手は私が大丈夫って言うまで離さないでね!?」

 小さい子は補助道具を使っているけれど、それでも大抵の人たちは難なくスケーティングしている。大人で私みたいにふらついている人は1人もいない。ごめんね、衛輔くん。私のせいで悪目立ちしてるかもしれない。でも私もこの手を離す気はない。なぜなら離した瞬間に転んでお尻が痛くなるのは目に見えているからだ。

「大丈夫だって。ちゃんとそばにいるから」
「ありがとう……でも笑いたいなら笑って! すごい笑い堪えてる顔してる!」
「あ、バレた?」

 ほろ酔い気分すらもどこかへ行って、私は足元に集中した。バランスを意識しながら衛輔くんの手を強く握る。両手を重ねているのにちっともロマンチックじゃないのは私と衛輔くんだからなのか、私のへっぴり腰のせいなのか。

「ゆっくりで良いから。足だけで滑ろうとするんじゃなくて身体全体を意識したらいいと思う」
「身体全体を意識……」
「筋トレするときってメインに効かせたい筋肉意識しつつ、他の動きも意識すんだろ? そんな感じ」
「なんかちょっとわかってきたかも」

 衛輔くんの動きに合わせて私も足を動かす。半分は衛輔くんが引っ張ってくれるような形になっているけれど、徐々に滑り方もわかるようになっていって、30分も滑れば衛輔くんの支えがなくてもなんとか進むことが出来るようになっていた。

「ど、どうかな!?」
「いい感じじゃん」
「まだちょっと腰が引けるけど衛輔くんの教えが良いからなんとかここまでやってこれました」
「1年ぶりだし、日本でも滅多にしてなかったんなら上出来だって」

 衛輔くんの笑顔が心に染みる。衛輔くんは言葉通り私の手を自分から離すことはなかったし、私を置いていくこともなかった。

「私もう1人でも大丈夫だから衛輔くん滑ってていいよ」
「いや、でも」
「あと私が衛輔くんのスケート見てみたい」
「いや俺もそんなに滑れねえし」
「それにずっと私の事コーチするのも退屈じゃない?」
「全然。せっかく一緒に来たんだから一人で置いてかないって」

 雪の結晶が光にあたって一瞬眩しく光るような、そんな笑み。氷点下を下回ると星空もくっきりと見えて、少し空を仰げば日本と変わらない星空が見える。
 寒い、綺麗、楽しい、寒い。ここがエカチェリンブルクで良かった。

「でも結構滑ったし寒いし一旦休憩する?」
「その前に1回だけ私ひとりで滑ってみてもいい?」
「おう」

 縁に身体を預ける衛輔くんから離れてスケートリンクを滑走する。ゆっくり、たどたどしく。他の人にぶつかってしまわないようにと注意しながら時間をかけて、衛輔くんが教えてくれた事を思い出しながらそこへ戻ろうとする。
 衛輔くんのところへ戻るまであと数メートル。私を見守るように見つめてくれているのがわかる。戻っておいでと言うように手を差し出されると、その手に触れようと自然と私の腕も伸びる。

「あっ止まり方は!?」

 なんとか一周できたと安堵したのも束の間、手袋越しに手を握れたのは良いものの止まり方を知らない私はそのスピードのまま衛輔くんのほうへ向かっていく。ぶつかっちゃう、避けて。そう願うも言葉に出来なかったのは衛輔くんが少し力を入れて私を自身の腕の中に収めたからだ。
 そっと腰に手を回されてようやく抱き止められたのだと理解する。つま先の冷たさを忘れて近くにある衛輔くんの顔を見上げれば、優しく晴れ晴れとしたような笑みで「おつかれ」と言うのだった。

「あ、ありがとう衛輔くん」
「どうだった?」
「自転車1人で乗れるようになった時ってこんな気持ちだったのかなって思った。ごめんね、待たせて」

 衛輔くんから距離をとって縁に手をかける。赤くなった頬と鼻。吐息はやっぱり白く舞い上がる。その日常はいつもと変わらないはずなのに、何が私の心を強く揺さぶってくるのだろうか。
 スケートリンクを出て暖房のある場所へ向かい、ベンチに腰かければようやく一息つけて肩の荷が下りたような感覚を覚えた。もう少し。きっとあと少しだけ。この夜は私達の為に続くのだろう。

(21.01.12)