16


 街中で光るクリスマスツリーを見ると今日が大晦日なのが嘘なんじゃないかとすら思えるのは多分、日本人が故だろう。しめ縄も門松もお正月の曲も、おおよそ日本人がイメージするであろうお正月のアイテムがない年越しはこれで2度目だ。
 25日を過ぎても存在するツリーは、寒さも相まって冬が永遠に続くのではないかとすら思えてくる。吐き出す息が今日も白く舞う。寒い。イヤーマフをしたけれど絶対耳が赤くなっている。ううん。鼻も頬も真っ赤かもしれない。
 大晦日、夕方。滑らないように足元を気をつけながら、正方形の四角い箱を大事に抱えて私はサーシャの家のベルを鳴らした。

「おつかれ」
「えっ衛輔くん」

 ドアの向こうにいたのはソーニャではなく、衛輔くんだった。あたたかそうなニットを着て「寒かったろ」と言うと、私が持っていた箱を持ってくれる。
 赤くなっているであろう顔のことが少し恥ずかしくなって私は慌てて頬を手のひらで包んだ。赤らみが少しはましになると良いけれど。

「これケーキ?」
「うん。私は買い出し手伝えなかったからケーキ担当したんだ」
「おお。楽しみ」
「ソーニャは?」
「バーブシカが料理作るの手伝ってる」
「衛輔くん来るの早かったんだね」
「大晦日の買い出しちょっと興味があって一緒に行ったんだよ」
「えっあの買い出しに!?」
「そ。めっちゃ人いてやばかった」

 ロシアの年越しは大晦日の夜がメインだ。普段は食べないような豪華な食事も食卓にたくさん並べるから買いにも一苦労する。スーパーはレジにたどり着くまで何十分もかかるし、大晦日の夕方にはもう食品がなくなっていることもある。日本の買い出しもすごいけれど、ロシアのそれも比べ物にならないくらい凄いのだ。

「ズドラーストヴィチェ」

 衛輔くんの後に続いてリビングへ行く。ソーニャやバーブシカ、キーラだけではなくたくさんの親族が集まっていて私は一瞬緊張から背筋を伸ばした。
 優しい瞳が私を捉えて「ようこそ、いらっしゃい」という誰が発したのかもわからない言葉に安堵し、結局衛輔くんの隣に腰を下ろすことで落ち着く。外の寒さが嘘のように部屋の中は温かい空気で満たされていて、滞っていた血流の巡りを感じるようになる。耳たぶや頬がジンジンと静かにしびれるのを甘受するしかない。

「ケーキ、ソーニャに渡せばいい?」
「あ、うん。ごめんね、ありがとう」

 キッチンから漂ってくる香りに食欲がそそられる。ソーニャは今頃何を作っているんだろうか。今日はお客様に徹しているのが正解だろうから手伝いには行かないけれど、衛輔くんが私の持ってきたケーキをキッチンに運ぶ背中だけを見送った。

「ソーニャとキーラから二人の話は聞いているよ。日本で年越し出来ないのはとても残念だろうけれど今年はここにいる皆を家族と思って過ごしてくれ」

 すぐに戻ってきた衛輔くんが私の隣に座ったのを見届けてからそう言ったのはソーニャのお父さんだ。一度だけ顔を見たことがあるけれど、ちゃんと話すのは今回が初めてだからそう言ってもらえると余計に嬉しい。
 飛び交うロシア語は時々理解するのが困難ではあったけれど私が困った顔をしても怒ったりため息を吐いたりする人は誰一人としていなかった。遠く離れた日本からやってきた私と衛輔くんを歓迎しているのがわかる。

「バーブシカだけじゃなくてソーニャにもキーラにもたくさん素敵な時間をもらっているので今日はこうして招いて頂いて本当に嬉しいです。ありがとうございます」

 日本では年末年始をどのようにして過ごすのか、ロシアの生活はどうか、仕事のこと、バレーのこと。冬の寒さのこと。そんな話を次々と運ばれてくる料理を前にして繰り広げる。最初は緊張もしたけれど雰囲気やお酒を飲んだこともあって気分は次第に緩んでいく。
 美味しい料理に楽しい会話。もう数時間もすれば年を越すなんてなんだか信じられないくらいだ。そう思いながら年を越せることこそが幸せなのかもしれない。
 大切なものを手放して、新しい大切なものを得た。日本を飛び出してロシアに来たことを、私はきっと死ぬまで宝物だと思うんだろう。

「衛輔くんモテモテだね」
「だろ?」

 数時間後、大人同士の会話に飽きた子どもたちの興味の矛先は衛輔くんだった。衛輔くんの周りに数人の子どもたちが集まるのを見つめながら、微笑ましい光景に目を細める。
 
「庭で雪遊びしたいって言うからキーラも一緒に外行くけど名前は?」
「寒いし体力足りないと思うからここで見守ってる」
「そうかなとは思ってた。戻ったらケーキ食うから俺の分と子どもたちの分ちゃんと残しておいて」
「はーい」
 
 部屋の端にあるクリスマスツリーが幸せで満たされる空間を見守ってくれている。明日の朝、あの下には子どもたちへのプレゼントが置かれている。
 今年を締めくくるには十分すぎるくらい、ここは優しかった。

(21.03.31)