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 私が大きなあくびをした瞬間レルーシュカは笑った。1月7日。ロシア国内ではクリスマスと認知されている日、私は朝からしっかりと仕事に励んでいた。
 そういう日だから今日は特に忙しくて休憩時間もなかなかとれないまま時刻は夕方に差し掛かり、客足が途絶えた一瞬。そこを見計らって私とレルーシュカはつかの間の休憩を堪能していた。

「寝不足?」
「多分年末年始の休みの感覚が抜けきってないんだと思う。ついだらだらしちゃって駄目だよね」
「年越しからクリスマスにかけてはどうしても気持ちが緩んじゃうのは仕方ないよ。今日はモリスケと会うの?」
「衛輔くん? ううん、会わないけどどうして?」
「こういうイベントのときは大切な人と会いたくなるじゃない」
「……大切な人と会うって言うなら今レルーシュカに会ってることで達成出来てるけど」

 意外にもレルーシュカは「そっか、嬉しい。ありがと」と短く答えるだけだった。12月24日に衛輔くんと一緒にクリスマスマーケットに行ったことはまだ誰にも言っていない。理由はわからないけれど、なんとなく言葉にするのがもったいないような気がして結局誰にも言えず終いだったのだ。

「それにしても今年はナマエがいてくれるから本当に助かる」
「え、そう?」
「クリスマスの日って皆、仕事は早上がりしたいじゃない? フルで出勤していいよってナマエが言ったときは嘘でしょって思ったけど本当にありがとう」

 そう言えばレルーシュカも恋人と過ごすって言っていたっけ。
 なんせ日本では七草粥を食べる日だから、私としてはやっぱりもうクリスマスは終わった話なのだ。それでも浮足立っているようなレルーシュカを見るのはこっちまで幸せな気分になるし、私が働くことで誰かが幸せな時間を過ごしていると思うと労働も嫌ではないと思える。

「日本だと今日は無病息災を願って春の七草を食べる日だからね。全然問題ないよ。今日はレルーシュカの分までたくさん働くから任せてよ」
「頼もしいわ」

 今でも街中にはクリスマスツリーが飾られてある。私には実感がないけれど、あの日の私のように、ロシアに暮らす人々は今日をクリスマスとして心躍る一日を過ごそうとしているのだと思うと、私にとっては何でもない今日が素敵な日と感じられる。
 こんな風にロシアに来て得たものは計り知れない。瞬間、脳裏に浮かんだのは衛輔くんの顔だった。確か明日からしばらく遠征でモスクワに行くと言っていた。増えてきた来客を対応しながら、つけたピアスに一瞬だけ触れる。

(衛輔くんは今頃何してるかな。明日の準備とかで忙しいのかな)

 私が今日こうして忙しい日を一生懸命過ごしているように、衛輔くんは衛輔くんでやるべきことをやっているんだろう。同じ国の、同じ都市の、少しだけ離れた場所で。
 そろそろ一般的な帰宅時間になってきたから客の入りが増えそうと覚悟を決める。確か来週からは新しい人がバイトで来るっていうし、今日を乗り切れば少しは楽になるともう一度活を入れる。

「来週からだよね、新しい子が入ってくるの」
「そう。確かアナスタシアって名前の19歳の男の子って聞いたけど」
「アナスタシア……愛称は何になるの?」
「ナスチャかな」
「ナスチャか。一緒に楽しく働けるといいけど」
「ナマエなら大丈夫だと思うよ。ロシア語もどんどん上手になってきてるし」
「でも筆記体は死ぬまで理解出来る気はしないよ」
「あれはまたちょっと次元が違うからね」

 ここの皆は私が日本人だからと、話すときも書くときも私が理解しやすいように様々な工夫してくれている。本当に周りに恵まれたなと思いながら、私はやっぱりここにはいない衛輔くんのことを思い浮かべた。
 きっとしばらくは会えないだろうな。でも昨日が今日に、今日が明日に繋がっていくように、衛輔くんとの関係も途切れることなく続いていけば良いと思う。そうだったら会えなくたって、例えば違う国にいたって私は幸せだと思える気がするから。


*   *   *


 覚悟をしていた怒涛の一日が終わり、お店を閉めるとタイミングよくスマホの音がなる。 

『メリークリスマス!』

 ただ一言の衛輔くんのメッセージに私は外であるにも関わらず笑みをこぼした。メリークリスマス。心の中で呟く。衛輔くんと祝う2度目のクリスマス。

『メリークリスマス、衛輔くん! 明日からの遠征頑張ってね、いってらっしゃい!』

 深々と雪が降る。冷気が頬にまとわりついて凍てつくような気温にまばたきをするのすら躊躇うけれど、身体の奥の真ん中の部分がふんわりと温かいのはきっと、幸せに溢れた人たちがたくさんいるからだろうか。
 幸せそうに寄り添い合うカップルの横を過ぎ去りながら、足元の雪をしっかりと踏みしめた。
 
(21.04.02)