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 稀に来客が全然ない日がある。
 朝から夜まで亀の歩みのようにゆっくりと流れる時間は退屈とは違ってどこか心地が良い。扱っている商品が商品だから経営を考えれば本当はあまり良くない状況ではあるんだけれど、寒さを和らげるような冬の日差しが入り込んだ光の筋を見るとこういう日もたまには悪くないんじゃないかと思う。

「今日だよね、ナマエが教えてくれたモリスケって人くるの」
「うん。モスクワに行ってたから会えなかったけど、衛輔くんよくお店に来てくれるからこれからナスチャも頻繁に会うと思う」

 新しいバイトの男の子、ナスチャと共に働くのも慣れてきた。ナスチャは主に接客を担当しているけど、今日みたいな日はゆっくり時間まで過ごすしかないね、とカウンターの内側で一緒にコーヒーを飲みながら言葉を交わす。
 衛輔くんが来るって言っていた時間はそろそろだから、いつあの扉が開かれてベルが鳴ってもおかしくはないんだけれど、今のところその兆しは見えない。

「レルーシュカから聞いたけど恋人なんだっけ?」
「違う違う。それはレルーシュカが面白がってるだけ」
「いい感じの雰囲気ってソーニャからも聞いてるけど」
「確かに衛輔くんとは仲良いし……まあ若干そう思われても仕方ないかなって部分はあるけど、異国でさ、しかもなかなか日本人がいないような場所で、偶然出会えた相手ってなるとある意味特別に仲良くなるものかなあって」
「そういうもんなんだ」

 多分ね、と笑う。時間があるからとサイフォンで淹れたコーヒーをおかわりしてゆったりとした空気に身を任せる。時計の針が一定のリズムを刻んで、気を抜いたらいつでも眠れそうだと窓の外を眺めた。人の往来。太陽光を受けて光る雪。向かいの建物の壁の落書き。昔からずっと続いてきたであろう人の営みが街に溶け込んでいる。

「あ」

 衛輔くんが私の視界に入った瞬間、窓ガラスを通して隔たれていた日常との距離がぐっと近づいた気がした。ふわりと浮かぶような感覚。ほの甘いスノーボールを口に含んだときに訪れる幸福感にそれはよく似ていた。
 来客を告げるベルが鳴る。木製の扉を押して現れたのは衛輔くんだ。

「ズドラスチェ」
「衛輔くん待ってたよ。1ヶ月ぶりくらい? だよね」
「だな。久しぶりな感じする」
「忙しそうだったもんね」

 店内を一瞥した衛輔くんはすぐに私達が暇を持て余しているのを悟ったのか、近くの空席に荷物を置いてすぐにカウンターの前に立った。

「ここは今日は暇そうだな」
「そうなの。全然お客さん来ないんだよね。あ、紹介する! 新しいスタッフのナスチャ。ナスチャは大学で日本語専攻してるからある程度なら日本語わかるんだよ」
「Очень приятно. ハジメマシテ、ヨロシク! アエルノヲ、マッテタ」
「おお、本当だ」
 
 ナスチャと衛輔くんが自己紹介のやりとりをするのを近くで見つめる。ロシア語と日本語と時々英語を混ぜながら会話をするふたりは端から見れば初対面なのが嘘のように思われるかもしれない。
 人見知りも人怖じもしない衛輔くんが、まるで昔からの友人のように笑いかけてくれた日の事を思い出す。そっか、衛輔くんと初めて会った日からもう1年が経ったのか。過ぎ去った日々が濃厚なのか淡泊なのか自分でもわからないけれど思い返す日々に嫌だった時間はなにもない。

「そうだ。忘れる前に渡しとかないとな。名前」
「うん?」

 衛輔くんが私の名前を呼んで時間が過去に馳せていた気持ちが今へと戻される。

「モスクワ土産」
「いつもいつもお気遣いありがとうございます……」
「なんだよそれ、つーか誰だよ」

 衛輔くんが笑うのを横目に渡された紙袋の中を覗く。四角いパッケージ。

「チョコレートだ!」
「同じロシアだから大したお土産もねえなって思ってたけどモスクワで人気のチョコレート店のらしいから多分美味いと思う」
「これ前にSNSで見たことある気がする……おしゃれな見た目……絶対に中身もおしゃれなやつでしょ。え〜美味しそう! 嬉しい!」

 破顔して喜ぶと衛輔くんも同じように満足そうに笑ってくれた。それとは別にお店の皆にと大きい紙袋を渡してくれた衛輔くんに昨日バーブシカが買い付けたばかりのコーヒーを淹れる。

「衛輔くん良かったら好きなケーキ選んでいいよ。2つでも3つでも」
「さすがに3つは糖質過多だな」
「言うと思った」
「名前が作ったのどれ?」
「今日はこれ」
「じゃあそれ食う」

 それも言うと思った。だけど言葉にすることなく、ショーケースから私が作ったケーキを取り出す。お皿にケーキを乗せる私のすぐ隣にナスチャがやってきて、耳打ちするようにこそこそと日本語で呟かれた。

「フタリ、ナカヨシ」

 そうだね。仲良しだ。ナスチャの目に私達がどう映ったのかはわからないけれど、仲良しだと思ってもらえたのならそれは私にとっては喜ばしいことだと言葉の深度は考えずに思うのだった。

(21.04.07)