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 まだ少し肌寒い風が冬と春の狭間にいることを知らしめている。衣替えするタイミングを見計らいながら毎日の服装に悩む日々はなかなか終わりそうにもない。
 季節が移ろう中、アパルトマンを出て小走りで道を渡りトラムに駆け込むのは今日も変わらずに、けれど、昨日から続く今日が変わらずにあることはとても幸せなことなんだとよと、街が伝えてくれている気がする。

(今日は帰りにスーパー寄って帰らないと)

 花壇に芽吹き始めた青々とした小さな双葉は一足先に新しい季節へ踏み出そうとしていた。

『明後日、帰国するんだけどその前に会えねえ?』

 そんな風に衛輔くんから連絡がきたのはちょうどトラムが停留所について人の流れが大きく動いた時だった。震えるスマホを確認する余裕もなく、結局その文字を見たのはお店に着いてからのことだったけれど。

『そっか。もう出発の日だもんね。しばらく会えなくなっちゃうし、時間作るから私も衛輔くんに会いたい!』

 今季の日本代表に選ばれた衛輔くんはチームに合流するためしばらくの間、日本に一時帰国する。
 クラブシーズンが終わったかと思うと次は代表としてのシーズンが始まって、一年を通して忙しいスケジュールなのにも関わらずこうして時間を作って会ってくれることには感謝しかない。

『じゃあ今日の夜は?』
『大丈夫だよ』

 スーパーに寄るのは明日になるかもしれないなと思いながら、二つ返事で連絡を返す。心なしか足取りは軽くなって、突然舞い込んだ予定は私を笑顔にさせた。

(今日も一日良い日になりそうだ)

 何度見ても飽き足らないこの街の景色を私はきっと、死ぬまで好きなままだろう。
 そんなことを不意に思う1日の始まりだった。


*   *   *


「名前もしばらく日本帰ってないだろ? 帰省の予定はないんだっけ?」

 食後にフルーツティーを飲みながら、衛輔くんからの一言に長く踏みしめていない島国の大地を想う。もう2年近くになるだろうか。定期的に家族や友達と連絡は取っているし、不思議と帰りたいと思うことはなった。
 温かいお味噌汁や、お好み焼きのソースの香り、あとは炊き立てのご飯は時々無性に恋しくなるけれど。

「こっち来てからは1回も帰ったことないかな。帰りたくないわけじゃないんだけどね。あ、でも試合はもちろん日本代表を応援するよ」
「そっか。応援はすげぇ嬉しい」
「代表シーズンが終わるまでエカチェリンブルクには戻ってこない?」
「こっちでやる試合は全部モスクワだから厳しいかな」
「じゃあやっぱり結構長く留守になるんだね」
「そんな顔すんなよ」
「そんな顔って?」
「うーん。寂しそうな顔?」
「……してた?」
「してたしてた」

 確かに寂しいとは思ったけれど顔に出したつもりはなかったのに。

「確かに長く会えないの寂しいなと思ったけど、それじゃあ私、衛輔くんと少し離れただけで泣いちゃう子供みたいじゃん」

 明るく言う。でもそれは仕方のないことだ。今は文明の利器もあるし、離れていても会話をすることは出来る。
 それに私が日本にいたからと言って、日本でこんな風に会えるわけでもないし。

「悪い、嘘。そう思ってくれてたらいいなーって俺の願望。でも少しはそう思ってくれたんなら嬉しい」
「ほぼ誘導尋問!」
「ごめんって」

 わざとらしく頬を膨らませて怒った素振りを見せてみたけれど衛輔くんは悪びれず笑うだけで、結局怒るふりをする限界がやってきた私も同じように笑ってしまった。
「じゃあお詫びに今日は俺のおごりで」と、さり気無く伝票を手に持つ衛輔くんのスマートさに見事だと感心する。

「ここは素直にごちそうさまになります。ありがとう衛輔くん」
「おう」

 衛輔くんが鞄から財布を取り出そうとして、一瞬だけ見えた中身に私があげたキーケースがあるのを見つけて、私は衛輔くんに気付かれないように微笑んだ。

「急にご機嫌じゃん」
「え、そう?」
「ニコニコしてる」

 が、しかし衛輔くんは私の笑みを見逃さなかったようだった。

「実は、今ちょっとだけ衛輔くんの鞄の中身見えちゃって、プレゼントしたキーケースあったから使ってくれてるの嬉しいなって。私ももらったピアスつければ良かったなって」

 お店を出て今朝の続きのような肌寒い風が耳を掠める中、言う。
 こんな風に幸せな気持ちのまま衛輔くんの顔を見つめると、新しい服でも買おうかなという気持ちが芽生える。あ、でも次衛輔くんに会えるのは夏か、夏の終わりか。少なくとも次に買った新しい服で衛輔くんと会うことは出来ないのか。
 お腹も満腹で、結局スーパーには寄れそうにないけれど後は部屋に戻るだけ。どうせしばらく会えないならもう少し一緒にいたいけれど、敢えてそうする為の理由はどこを探しても見つかりそうもない。
 クリスマスマーケットに一緒に出掛けても、年越しを一緒に過ごしても、定期的にご飯を食べたりお土産をもらったりしても、私たちは理由なく夜を越えられる存在ではない。こんなに近くにいていつでも触れられる距離なのに、見えない壁はどうしてもあるのだ。
 長いこと会えなくなる日々を寂しいと思っても、それを埋めるのは互いではなく自分自身。

「なあ」
「うん?」
「今日、名前のアパルトマンの前まで送っててもいい?」

 だから衛輔くんにそう言われた時、私は正直驚いた。わざわざ? そう思いながら肌寒さも春服のことも忘れて頷く。
 衛輔くんの後ろで大きな星が光って、そういえば星が落ちてしまいそうな夜、隣にいるのはいつも衛輔くんだったなとこれまでの淡く優しい夜を思い出した。

(21.05.31)