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「ナマエに会いに来るのが当たり前になってたから、こんなに長いことモリスケが来ないのも変な感じよね」
「……そう?」

 衛輔くんがエカチェリンブルクを発ってから早2カ月。衛輔くんのいない日常はそれでも平和に、私はいつもと変わらない日々を繰り返していた。
 春はすっかり過ぎ去り、そよぐ風は湿度も低く快適。まさにベストシーズンにいるエカチェリンブルクはもう少しでリンゴの実る時期へ突入しようとしている。時期が時期なら桜と見間違えてしまいそうになる花が街中にある林檎の木を彩る。シャルロートカを作る季節がまたやってくるのだ。

「あと2か月くらいは戻ってこないんだっけ?」
「うん。みたい」

 連絡は時々。好きと言われた夜が嘘みたいに私と衛輔くんのやりとりに変化はなかった。
 とは言え、連絡をとるたび胸の奥がとくとくと必要以上の音を鳴らすようになったのは確実に衛輔くんのせいだ。

「それにしてもモリスケよく言ったわよね」

 レルーシュカは関心するように言った。
 好きと言われたことを相談するべきか迷ったあげく、隠しきれない心は先にレルーシュカに見透かされた。「モリスケと何かあったでしょ」そうレルーシュカが指摘したのはつい先月のこと。

「むしろ遅かったくらいよ」

 レルーシュカの言葉に頷いたのはソーニャだ。2人掛けのテーブルいっぱいに課題を広げている。

「早く返事してあげればいいのに。ナマエの答えは決まってるでしょ? まあモリスケもナマエの返事はわかってるとは思うけど」

 言葉に詰まる。否定も肯定も出来ない。衛輔くんも言っていたように私たちは「結構良い感じ」なんだと思う。一緒にいて楽しいし、違う形でもっと近づけるのならそれは喜ばしいことだとも思う。

「断る、って選択はない、けど……」

 口ごもるように言った。
 あれからずっと衛輔くんのことを考えていた。恋を覚えたての中学生でもあるまいし、いい大人なんだからこれくらいスマートにいかないと……と思うのに、衛輔くんと過ごしてきたエカチェリンブルクの日々を思い返すと初恋のような甘酸っぱい感情が広がってどうしようもなくなるのだ。それは林檎の酸味にもよく似ている。

「心配事でもあるの?」

 スタッフルームから戻ってきたナスチャが人の良い笑みで訊ねてきた。完全に四面楚歌。誤魔化すというカードは私の手中にはない。こんな時に限ってお客さんは全然こなくって、ここぞとばかりに皆が私の反応で遊んでいるのは理解できた。

「……今まで仲の良い友達と思ってきたから急に恋人って意識するの難しいなって思って」
「うそでしょ……! 今時ジュニアスクールに通う子供でもそんな事言わないわ」
「う……友達でいるときは思わないけど、なんか……私でいいのかなぁってほんの少しだけ思ったり……思わなかったり……」

 急に自信がなくなるのは、衛輔くんがどれほど素敵な人間なのかを私がよく知っているからだ。あんなに優しくてかっこよくて一生懸命で笑顔が素敵な人、他には知らない。

「待って。確認するけど、ナマエはモリスケのこと好きなのよね?」

 またしても私は答えに詰まる。ストレートに尋ねるレルーシュカの問いは私の気持ちを丸裸にさせるようで逃げてしまいたくなる。このお店にいて逃げ出したいと思ったのはこれが初めてだ。

「好きっていうか、買い物したりご飯食べたり一緒に楽しくすごせるだけで満足だったし、そういうの考えたことなくて、そりゃあ衛輔くんが彼氏なら最高に素敵だろうなとは思うけど、図々しいかなとか気にかけてくれるの日本人同士だからかなとか思ってて。衛輔くんの気持ち本当に嬉しくて断る理由なんて全然見つからないんだけど、これから彼女として隣に立つのかって思うと……恥ずかしくて、うわー! だめだー! って気持ちになって考えることを放棄しちゃう……」
「……ナマエって勢いがあるのかないのかわかんないわ。一人でこの街に来る度胸あるんだからモリスケとのこともそんな難しく考えなくてよさそうなのに」

 溜息とともに吐き出されたソーニャのセリフは私の痛いところをついているようで返答に困った。
 多分、嫌われたくない。今の関係がベストだと思っていたから、その均衡を崩してより距離が近づいたときに、衛輔くんに嫌われるようなことになったらと思うと怖いのだ。

「モリスケだって悩んだんじゃない? 言うか言わないか。ナマエを困らせたりしないかとか」
「え?」
「ナマエのこと見るモリスケの瞳、いつも優しかったし。ナマエのこと、すごく好きなんだと思うよ」
「ナスチャ……」

 わかる。わかっている。衛輔くんが私のことをどれほど考えてくれていたか。そしてそれが傍から見てもわかるくらい、衛輔くんの気持ちは顕著だったということも。わかっているつもりなんだけど。
 3人の私を見つめる目は穏やかで優しかった。大切な人が大切な人と結ばれますようにと心から願ってくれているのがわかる。遠く、母国にいる衛輔くんを私はまた脳裏に思い浮かべる。魔法みたいな笑顔。私のつくったシャルロートカを美味しいと言って食べてくれる人。
 約6000km離れた場所にいる衛輔くんに伝える言葉を私はゆっくりと構築させる。

(21.06.01)