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 季節は加速するように進んで、いつしか暦は極暑を迎える頃となった。蝉の声が聞こえない、快適なロシアの夏。それでも頭上にある太陽は1年を通して1番強くエカチェリンブルクの地を照らしつける。
 熱を纏いながらもさらりと頬を撫でる夏の空気は不快感をもたらさず、日本の夏もこれくらい快適な体感であればいいのにと思ってしまう。しかし、それでもどこか遠くから涼やかな風鈴の音が聞こえてきてもおかしくないくらい、太陽は燦燦と照っていた。こんな日は甘いアイスが食べたくなる。そんな時にも思い浮かぶのは衛輔くんの顔だった。

(あ、そういえば明日って)

 日差しを手で遮りながら明日が何の日かを思い出す。8月8日。衛輔くんの誕生日。多分。いや、きっと。頭の中で木霊する衛輔くんの言葉なければ、日本時間で0時になった瞬間お祝いのメッセージを送っていただろう。時差を計算して日付が変わってすぐなんて、今の私には大胆すぎる。

(でもおめでとうは言いたいし)

 薬局から家まで歩く帰り道、また私の頭の中が衛輔くんで埋まる。ここにはいないのに、こんなにも強く存在を残して日本に戻るなんて衛輔くんはちょっと狡いな。


*   *   *


『こんばんは。今日衛輔くんの誕生日だよね。遅くなっちゃったけど、おめでとう!』

 悩んで悩んで悩んだ挙句、それは8月8日の夜の19時に送信された。

『名前から全然連絡来ないから忘れられてるかなって思った。ありがとな』

 日本時間23時。ぎりぎりになってしまった理由を素直に言えば衛輔くんはどんな顔をするんだろう。それでもなんとなく海を渡った先にいる衛輔くんが優しく微笑んでくれているような気がして、ちゃんと言えてよかったと私は安堵した。
 その瞬間だった。手中にあるスマホが震えて着信を知らせたのは。衛輔くん。その名前が画面に表示されて私は慌ててスマホを耳に押し当てる。

「あー……急に悪い。今平気?」

 心地よい声が届く。

「へ、平気。ちょっとびっくりしちゃったけど」
『やっぱり声聞きたいと思って』
「えっ」
『直接は会っては無理だけど、名前の声で言ってほしいなって』

 面映ゆさと気恥ずかしさを混ぜ合わせたような感覚は私の体温を上昇させた。衛輔くんの言葉の一つ一つが私の心を刺激する。
 今まで私達、どんな風に接していたんだっけ。それまでの当たり前を思い出せなくなるくらい、私は衛輔くんを意識していた。とくとく、とくとくと、ほらまた、心臓が勝手に躍る。

「お……めでとう」
『なんでそんな控えめなんだよ』

 そんな私とは対照的に衛輔くんはいつものように笑った。それが妙に悔しくて、ほんの少しでもいいからこの胸の高鳴りが海を渡って衛輔くんに移ってしまえばいいのにと意地悪なことを考える。

「……心の準備が出来てないのに衛輔くんが急に電話してくるから」
『ふーん。俺との電話に心の準備が必要なんだ。もしかして意識してくれてんの?』

 衛輔くんはからかうように言った。

「それは、だって!」

 熱帯夜でもないのに体が火照る。冷たい水の中に飛び込んでこの熱を冷ますことが出来たらいつものように話すことができるんだろうか。
 衛輔くんが放った2文字は世界を劇的に変化させたと言っても過言ではない気がする。

『悪い。話せたの嬉しくて意地悪したくなった。まだギリギリ誕生日様ってことで許して』
「許す……」
『許すのかよ』

 意地悪も緊張も面映ゆさも、全てが心地よく私の体に行き渡る。

「……良い誕生日だった?」
『良い誕生日だったけど、名前と話せてもっと良い誕生日になった』

 形も名前もなんだって良いのに、なんだって良いはずなのに、私は今、衛輔くんに触れたと願ってしまった。見つめあって微笑んで、名前を呼んでほしいと願ってしまった。

「そっか。嬉しいな」

 丁寧に重ねてきた過去があるから、そしてこれからも共有したい時間があるから、私は願ってしまったんだと思う。衛輔くんともっと深い場所で繋がれる存在になりたいと。

「衛輔くん」

 懇々と慈しみを込めて、大切にその名前を呼んだ。

『うん?』
「誕生日おめでとう」
『おう』
「来月、こっちに戻ってくるの楽しみにしてるからね」
『……そういうこと言われると期待するけど、いいの?』

 思えばずっと前から衛輔くんは私の近い場所に存在していた。見上げる距離も、微笑みあうことも、名前を呼ばれることも、呼ぶことも。美味しい食事を一緒にして、星の輝く空の下を歩くことも。重ねてきた時間は全て、愛しいと思う他ない。

「それは戻ってきてから伝えるって約束だから、今は内緒」

 衛輔くんと会えるまであと1か月。伝えたい言葉は、私が気付かなかっただけでずっと前から私の中に存在していたのかもしれない。

(21.06.02)