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 シャルロートカの香りがキッチンに広がる。甘酸っぱい林檎にシナモンやカルダモンといったスパイスが絡まって、きゅっと胸を締め付けるような食欲が襲い掛かった。冬のはじまりを告げる柔らかい粉雪のようなきめ細かい粉砂糖を振りかける。温めた包丁で断面を崩さないようにと意識しながら切り込みを入れれば、1ホールのケーキは綺麗な8等分のピースになった。

「うん。去年より断然美味しい」

 楕円のケーキ皿に置かれたシャルロートカを口に入れて、ソーニャは言った。
 私は言葉と同時にほっと胸を撫でおろす。レシピや工程、選ぶリンゴの種類を振り返って正解だった。
 衛輔くんから言われる「美味しい」もすごく嬉しいけれど、ソーニャから言われる美味しいには「合格」の意味も込められているから。

「はやくモリスケにも食べてもらわないとね。今日でしょ、戻ってくるの」

 ソーニャの言うように、今日午後の飛行機で衛輔くんがこの街に戻ってくる。長かった数カ月がようやく終わろうとしていて、そして私の気持ちを露呈させる瞬間がやってきたのだ。


*   *   *


「おまたせ」

 フライトで疲れているだろうと想像出来たのにも関わらず言ってしまった「会いたい」を衛輔くんは快諾してくれた。

「ごめんね、衛輔くん。戻ってきて早々呼び出しちゃって」
「いや、俺も早く会いたかったから」

 入相、エカチェリンブルクの中心を東西で二分するように流れるイセチ川では煌々とした夕日がその水面に光芒を差している。湖畔沿いの遊歩道は綺麗に整備されており、学校帰りの学生や散歩をしている夫婦、ランニング中の男性が川沿いの賑わいに加担していた。私と衛輔くんもそんな風景の一部になって街に溶け込む。
 たった数カ月。されど数カ月。それが長かったのか短かったのか今となっては判断がつかないくらい、小走りで駆け寄って来てくれた衛輔くんに私の全てが注がれた。目的地もないまま、川に沿うように私たちは歩き始める。

「えっと……久しぶり」
「だな。なんか変わったことは?」
「とくには。お店のみんなも元気だし、私もいつも通り」

 向こう岸に見えるビル群の明かりがちらほらと灯り始めて夜の姿を微かに見せはじめた。あと1時間もすれば太陽は姿を消し、帳が下りるだろう。ゆっくりと流れる時間を体で感じながら切り口を探す。
 どんな風に伝えれば、私の中にあった気持ちを衛輔くんにわかってもらえるだろうか。抑え込んでいた緊張が顔を覗かせる。

「……衛輔くんはあれだね。本当にお疲れさまでした、だね。見逃さないようにってネットチェックしてたんだけど、たくさんクローズアップされてたよね。インタビューも読んだけど、いつも身近にいる人がこんな風に注目されて国を背負って勝負して、本当にすごいなって改めて思った。ちょっと不思議な感じもしたけど、でもそんな風にたくさん目に触れてたからかな。会えなくて寂しいなって思うよりも、早く会ってたくさん話がしたいなって思って。だから今日戻ってきて衛輔くん疲れるだろうなってわかってたんだけど——」
「名前」

 衛輔くんは落ち着いた声でやんわりと私の言葉を止めた。

「ゆっくりでいいって。全部聞くし。ていうか聞きたくて俺も来たし。焦んなくていいから、名前が言いたい事全部言って」

 少し気恥ずかしそうに、だけどきっと衛輔くんは見透かしていたのだろう。凪ぐような穏やかな瞳は全てを包み込んでくれそうなくらい優しさが滲んでいた。
 深呼吸をして、衛輔くんが与えてくれた時間で衛輔くんに伝える言葉を紡ぐ。

「日本に戻る前に衛輔くん、私に好きって言ってくれたでしょ?」
「言った」
「衛輔くんがいない間、私本当にずっと衛輔くんのこと考えてて、言ってくれた言葉が全然頭から離れなかったの」
「うん」
「テレビとかネットとかで衛輔くんが活躍してるの観る度、こんな素敵な人が私のこと好きになってくれたのすごく嬉しいなって思って、それでその度、早く会いたいなあって願ってた」

 少しずつ衛輔くんから視線を外す。ここからはちょっと、羞恥心のほうが勝って言葉にするだけが精一杯だ。
 太陽が沈んで影は深くなり、今度はビルの明かりが煌々とイセチ川に光芒を差していた。揺れる光を見つめながら、1つ1つを零さないようにと言葉にする。

「衛輔くんとは今までの関係でも一緒にいてすごく楽しかったんだけど、でも衛輔くんの言うように……その、付き合ったらもっと楽しいことたくさんあるんじゃないかなって。もっと衛輔くんの近い場所に存在できるなら幸せだなって」

 だから、つまりね。
 その瞬間、立ち止まった衛輔くんが私の手を引きそのまま言葉を遮った。

「ごめん、キスしていい?」
「えっ今? ここで!?」
「すげえしたくなった」
「外だよ!」
「こっちじゃ普通のことだろ?」
「……私達日本人じゃん」
「そうだけど、日も沈んだし」

 思わず衛輔くんを見つめて瞬きを繰り返す。
 私、最後まで言えてないよ。だけどきっと衛輔くんはわかってたんじゃないかな。告白した時から私の持っている答えはひとつだってこと。
 期待を孕む衛輔くんの瞳から逃れる術を知らない私は、せめてもの抵抗として小さく言う。

「う……じゃあ、頬になら……」

 言い終わると同時、頬に衛輔くんの唇が触れた。引かれた手はそのまま少し屈んだ衛輔くんが私に近づいて、そしてすぐに離れる。名残惜しいと思うくらいに優しい。頬に熱が宿り、そよ風がその場所を撫でる。

「名前の髪から甘い香りがした」
「あ……今日シャルロートカ作ってたから」
「そっか。もうそんな季節か」
「ソーニャが美味しいって。初めて合格もらえた」
「まじで? じゃあ俺も早く食べないと」

 衛輔くんは嬉しそうに笑う。幸福感で心が満たされてこれまでに感じたことのない愛しさの芽吹きを予感した。

「衛輔くん」
「ん?」
「好きだよ」
「その言葉、ずっと聞きたかった」

 ロシアはエカチェリンブルク。私が衛輔くんと出会った場所。街中にはシャルロートカの香りが漂い、人々は丁寧に暮らしを重ねる。お気に入りのコートを捨て、日本を飛び出した私は今日もここで生きている。大好きな人達に囲まれて。

(21.06.03)