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 仄暗い朝、いつもより2時間ほど早く設定した目覚ましは軽快な音楽で私を覚醒へと誘った。薄く瞼を上げ朝が来たことを確認する。ベッドの中であくびをして、あともう少しだけ寝ていたいと思うのもいつもと変わらぬことだ。

『おはよ。ちゃんと起きてるか?』

 衛輔くんからそうメッセージが来ていなかったら、私は自分を甘やかして二度寝してしまっていたかもしれない。
 冷え込む季節がやってくる前に一緒に早朝ランニングしようと誘ったのは私からだった。

『衛輔くん、おはよう〜。眠い……けど頑張って起きて向かいます!』

 スマホの向こうで衛輔くんが笑っているのを想像しながらおもむろにベッドから出る。
 もう半袖のパジャマで眠るのには寒い時期になってきたし、やっぱり寒さが本格化する前に誘って良かった。それに、一日のはじまりに衛輔くんに会えるのは嬉しい。
 最低限の朝の支度を終え、クローゼットからトレーニング用のパーカーを取り出し鏡に全身を映す。なかなか見た目も悪くないんじゃない? と、眠気もすっかり忘れて私の気分は高まっていった。


*   *   *


 衛輔くんと会うのはあの日以来だ。
 連絡はほぼ毎日していたとは言え付き合ってから顔を合わせるのは初めてだったから、イセチ川沿いにあるガゼボにいる衛輔くんを見つけて私は忘れかけていた緊張を思い出した。

「も、衛輔くん!」
「おはよ、名前」
「ごめんね。待った?」
「いや、全然。ウェアいいじゃん。似合ってる」

 いつもと変わらないはずなのに「好き」を自覚して認めるだけで言葉の届き方が変わるのは不思議な感じだ。
 衛輔くんのことは前々からかっこいいと思っていたし、素敵な人だと思っていたけれど、体を駆け巡るこの感情は筆舌に尽くし難い。
 顔見知りでも知り合いでも友人でも親友でもない、私の恋人。

「それじゃあ軽く準備運動してから走るか」

 衛輔くんに倣って準備運動を行い、川沿いの遊歩道を軽快に走り出す。澄んだ清らかな朝の空気の中で舗装された道をランニングシューズで強く蹴る感覚はたまらなく気持ち良い。

「今日仕事何時までだっけ?」
「ラストまでだから19時かな」
「じゃあ後で店行くわ」
「えっ」
「いや、そんなに驚くようなことじゃないだろ」

 わかってる。そうなんだけど。

「ずっと会えなかったんだし、会える時は会えるようにしたいんだけど」
「わ、わかった」
「……迷惑?」
「えっ」

 すぐ隣に視線を向ければ私のペースに合わせて走ってくれる衛輔くんがいる。思わず立ち止まってしまいそうになるのを堪えた。

「なんか名前今日、本調子じゃなさそうだし」

 私が今どれだけ衛輔くんのことを意識しているか、衛輔くん全然わかってないでしょ。
 ペースを落とさぬように、軽やかさと清々しさを忘れないように、私は気持ちを澄んだ空気に吐き出した。

「……ううん、違うの。今までだって衛輔くんよくお店に来てくれてたし、嬉しいんだけど、多分私が必要以上に衛輔くんのこと意識しちゃってるんだと思う。時間が経てば馴れるはずだから、それまで待ってて」

 一歩深くお互いの人生に寄り添う事を選んだのだから、私達はこれからきっと多くの変化を遂げるだろう。接し方。時間の使い方。連絡頻度。何を言葉にするか。どんな風に見つめ合うか。
 だけど、変わっていくものと同じくらい変わらないものも多くあってほしい。私は今までも、そしてこれからも、衛輔くんと一緒に楽しい時間を過ごしたい。そんな時間を紡げる人間でいたい。

「そっか……」
「うん」
「あー……なんつーか、名前が俺のこと意識してくれてんの、結構嬉しい」

 困ったように笑うところも、包み隠さず伝えてくれることも「好き」という気持ちに繋がる。
 今まで気が付かなかったのが不思議なくらい、この気持ちが私の中に違和感なくおさまって、じんわりと熱が帯びた。

「……シャルロートカ。衛輔くんの。用意して待ってる」
「おう」

 風を切る。夏が終わり、秋が来る。
 ひととせがまた巡るのだ。衛輔くんのいるエカチェリンブルクで。

(21.06.13)