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 暮れる空はぼんやりと色を濁していた。揺らめくような空気に、窓の外では仕事帰りの人々が往来している。時々お客さんが来店してはショーケースの中から選ばれた商品が一つ、また一つと減っていく。

「あ。ナマエのドルゾークが来たわよ」
「えっ」

 閉店30分前。開かれたドアに立つ衛輔くんに気が付いたのはレルーシュカだった。
 今朝交わした約束を思い出す。衛輔くんと会うのは本日2回目のはずなのに、内側から溢れ出てくる感情は治まることを知らない。

「名前、レルーシュカ、おつかれ」
「ハイ、モリスケ。久しぶり。ナマエから聞いたわ。2人、付き合うことになったんでしょ?」
「そ。俺の片思いが実ったって感じ」

 嬉しそうに笑う衛輔くんを見つめた。居心地が悪いとも違う、漂う空気がくすぐったいような、とても不思議な感じ。これ以上ここで恋愛トークを繰り広げられることになってしまってはかなわないと、私はすぐさま衛輔くんに声をかけた。

「衛輔くん、何か飲む?」
「じゃあ紅茶ほしい。名前の作ったシャルロートカまだある? あるなら食べたい」
「うん。わかった」

 衛輔くんのためにとっておいたシャルロートカをお皿に移して紅茶を淹れる。
 ソーニャに合格をもらえたシャルロートカ。去年と比べて買っていってくれる人が増えたシャルロートカ。今年最初の衛輔くんが食べる私のシャルロートカ。
 その甘さと香りが優しく、そして心地よく衛輔くんの口の中に広がりますようにと願う。

「はい。どうぞ。紅茶はあと少しだけ待ったほうがいいかも」
「サンキュ」

 大きな口を開けてシャルロートカを食べる衛輔くんを見つめた。視線に気が付いた衛輔くんは頬張りながら言う。

「ん。上手い」
「本当?」
「去年のも美味かったけど、今年のもめちゃくちゃ美味い」

 作ったものを誰かに食べてもらえて、尚且つ美味しいと言ってもらえるのは嬉しい。
 でも、私はきっと衛輔くんに美味しいって言ってもらうのが一番嬉しいんだと思う。シャルロートカを作っているとき私は衛輔くんのことを思い出す。それは今でも変わらない。

「……衛輔くんは砂糖と塩を間違っても美味いって言ってくれそうだよね」

 私の日常のいたるところに衛輔くんがいる。馴染むようにその存在が浸透している。そのことが今になって気恥ずかしくなって、私はつい、そんな可愛げのないことを口走ってしまった。
 衛輔くんは笑って「そん時はまあ、完食はするけど指摘もする」と言ったけれど、私はやっぱり衛輔くんが不味いとか、美味しくないとか、そういう言葉を口にするのは想像できなかった。

「私、衛輔くんに美味しいって言ってもらえるのが、一番嬉しい」

 今度こそ素直に気持ちを吐き出す。日本語で、呟くように。
 何十年後もこうやって私の作ったシャルロートカを食べてもらえたら良いな。美味しいって言ってもらえて、そしてもし私が砂糖と塩を間違えたら「馬鹿だなぁ」なんて、笑いながら言ってほしい。

「……そっか」
「うん」

 これから先、私たちがどんな風に人生を歩んでいくのかわからない。けれど、例え私たちが何者になろうとも、衛輔くんの幸せを心から願える人間でありたいと思う。

「名前」
「なあに」
「去年のシャルロートカはさ、甘さも控えめで少し酸味もあって、さっぱりしてて美味しかった。今年のシャルロートカは、去年のよりは甘いけど口当たり滑らかだし、くどくもなくて美味しい。紅茶とかコーヒーに合う」

 閉店5分前。最後の一口を頬張って、衛輔くんは柔らかく言った。衛輔くんの甘い言葉が私の耳に溶けてゆく。
 

*   *   *


 すっかり日は沈んで夜は優しく顔を出した。

「またね。2人とも」
「おつかれ、レルーシュカ」
 
 トラム乗り場へ歩いていくレルーシュカの後姿を見送って、衛輔くんに向き合う。

「どうしようか?」
「名前が腹空いてるなら夜ご飯行こうぜ」
「空いてる! 行く!」

 喜ぶ私を見つめ、柔らかい表情のまま衛輔くんはそっと私の右手を握った。とても滑らかな嫌味のない所作。衛輔くんの気持ちが、繋がった手のひらを通して伝わってくるような感覚を覚える。

「スタローバヤ? それとも他の店が良い?」
「ス、スタローバヤで良いよ。衛輔くんさっきシャルロートカ食べたしきっとそんなにお腹空いてないでしょ?」
「食えって言われたら食えるけど」

 私の気持ちは指先に込められてるだろうか。ほんの少しでも言葉に出来ない想いが伝わればいいのに。衛輔くんと手を繋いで、見慣れたエカチェリンブルクの街を歩く。それだけで夜は一層、優しくなる。

(21.06.29)
※ドルゾーク……恋人(男性)の意