31


 建物の光が夜の街を彩る中、ほのかにひんやりとした風が吹く。スタローバヤを後にしてトラムに乗り込むと衛輔くんは再び私の手を握った。先ほどと比べると緩い力は気を抜くとすぐに解けてしまいそうだ。

「衛輔くんは手を握るのが好き?」
「え」
「さっきも繋いだし、好きなのかなぁって」
「……悪い。無意識だった」
「無意識」
「なんつーか、名前の顔見てたら触れたくなる」

 言葉と共に指先に力が加わるのがわかった。滞りなく走るトラムがカーブに差し掛かったけれど、私達の手は解けない。
 
「……何ニヤニヤしてんだよ」
「だってなんか、恋人らしいな〜って思って」
「恋人だろ」

 少し気恥ずかしそうに言う衛輔くんの丸い瞳に私が映っていることが嬉しい。
 繋いだ手をそのまま、いつかの日と同じように私の最寄りでトラムを降りる。
 
「明日も仕事?」
「うん。衛輔くんも練習?」
「午後からな」
「そっか」

 離れがたい。多分、衛輔くんも同じように思っているはず。だって繋がれた指先がそう言っている。
 深い場所に触れることが許された関係は時として知らない欲望を膨らませる。前は簡単に言えていた「またね」が言えなくなるなんて、なんと贅沢なことだろう。

「名前」
「うん?」
「……呼んだだけ」
「衛輔くんもそういうことするんだ」
「なんだよ、それ」
「可愛いなって思って」

 夜の風がふんわりと私達を包んだ。
 衛輔くんは繋いでいない方の手のひらで私の頬に触れる。慈しむように、愛でるように。優しさが滲んで、微かに切なささえ混ざる衛輔くんの手のひらに私の心拍数は一気に上昇する。

「出来ればかっこいいって思ってほしいんだけど」
「それは……ずっと思ってる」

 小さな声でそう言うと衛輔くんは満足そうに微笑んだ。

「まじ?」
「当たり前だよ。衛輔くんがかっこよくない日なんてない気がする」

 ほら、やっぱり。笑った顔だってかっこいい。
 そう思ったのも束の間、元々遠くはなかった距離がグッと近づいて唇と唇が触れ合う。

「名前もすげぇ可愛い」

 とてもささやかなキスが私の感情の全てを攫って、町外れの静かな夜を彩った。
 星も月も街灯も全て霞む。眼前にいる衛輔くんだけが私にとっての光のようで、私はつい視線をそらした。

「もう私の心臓は耐えられない……」
「はは、なんだよそれ」

 こんな涼しい夜なのに、触れられた場所が春の日差しのように温かい。

「しかも外なのに」
「誰もいねえじゃん」
「……そうだけど」

 どこにも人目はないと言え、躊躇いもなく触れることが出来てしまう衛輔くんにはもう白旗をあげるしかない。
 心地よく翻弄されている。促されるように心が蕩けて、感情がゆらゆらと揺れる。

「再来週、遠征でイタリア行くんだけどさ」
「イタリア?」
「つっても1週間くらいで戻ってくるから」
「そっか。頑張ってね」
「おう。で、戻ってきたらヴィソツキービジネスセンターの展望台行こうぜ。約束してただろ」
「覚えてたの?」
「忘れるわけないって。次のデートのオサソイ。いい?」

 積み重ねてきた日々に想いを馳せる。
 楽しいことも悲しいことも嬉しいことも辛いことも、全部が今の私を形成している。そしてそれらが集約された今、私を形取るのは紛れもない「幸福」だ。

「うん。楽しみ」

 遠くからやってくるトラムの光が見えた。それに気付いた衛輔くんも視線をそちらに向ける。

「まだ一緒にいたいけど、あれに乗って帰るわ」
「わかった。明日があるし、トラムの本数も減っちゃうもんね」

 そう言うと衛輔くんは最後、私を優しく抱き締めた。応えるように、私もその背中に腕をまわす。

「……衛輔くん」
「ん?」
「理由が無くても、連絡していい?」
「当たり前だろ」
「衛輔くん」
「んー?」
「呼んだだけ」
「おい」

 耳元で互いに笑い合う。囁くような笑い声にトラムが近づく音が混ざる。
 抱きしめた時と同じように、衛輔くんはゆっくりと身を離した。間を抜けた風がお別れの合図。

「じゃあ、またな。俺からも連絡するから」
「うん、また」
「おやすみ」
「おやすみなさい」

 やってきたトラムは停まり、ドアが開く。
 降りる人と入れ替わって衛輔くんが乗り込む。
 夜の街に消えてゆく光を私はいつまでも見つめていた。

(21.06.29)