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 身体が重たい感じがすると思った数時間後、見事に熱を出した。仕事を終えて部屋に戻り、襲い掛かってきた普段よりも深い疲労。これはただ事じゃないと引き出しから慌てて体温計を取り出した結果だった。
 ちょうど季節の変わり目。気を抜いていたつもりはなかったけれど、いつの間にか風邪をひいていたらしい。明日と明後日は休みだからゆっくり過ごせばきっと次の出勤日には元気になるんだろうけど。

 でも。
 でも、明日は衛輔くんがイタリア遠征から戻ってくる日だったのに。

 ベットで横になりながらイタリアにいる衛輔くんのことを考える。もう2週間近く会えていない。社会人なんだから1か月くらい会えなくたって普通のことなのに、この体調だからか、いつもよりも会いたい気持ちがむくむくと膨れ上がる。
 こんな状態でなければ明日、少しくらいは会えていたかもしれない。熱に浮かされる頭で、せめてメッセージだけはとスマホを手に取った。

『衛輔くん、明日こっち戻ってくる予定だよね? 遠征お疲れさま。気を付けて帰ってきてね!』

 画面が眩しくて最低限伝えたい言葉だけを文字にする。部屋の明かりを消して、ベッドサイドにある小さい照明のボタンを押せば淡いオレンジの光が優しい小さな空間を与えてくれた。化粧を落とさないで寝たらダメだとわかっているのに、光はまるで眠りへ誘うかのように揺れている。

『朝の便でそっち着くんだけど、昼か夜、一緒にご飯食べねえ? もし仕事あったら終わるの待つし』

 私と現実をかろうじて結んだ衛輔くんの返事。手の中にあるスマホの重みを感じながら、返事をするために私はゆっくりと画面に触れる。

『明日休みだから私も衛輔くんに会いたいんだけど、実は今ちょっと熱あって。下がるかもしれないけど衛輔くんにうつしたら困るし、治ったら私から連絡するね』

 何が悲しくてデートの誘いを断らなくちゃいけないんだろう。体調を崩してしまった不甲斐ない自分にも虚しさを感じながら、私の意識はまたゆっくりと沈もうとする。硬く鈍い音を立てて、手のひらからスマホが床に落ちたのが分かったけれど拾う気力もない。
 服を着替えることもなく化粧を落とすこともなく、さらにはベッドサイドの照明を消すこともなく、私はその夜、最悪な状態で夢の中へと旅立ったのだった。


*   *   *


 緩く目が覚めた次の瞬間、昨夜意識を手放した時のことを思い出した。太陽の日差しがカーテンの隙間から射し込む室内で、灯したままの照明を消す。昨日着ていた服には皺が寄っているし、化粧を落とさなかった自分の顔を見る勇気はない。
 いつ以来の失態だろうか。まだ少しだけ重たい頭を感じながら、這いずるようにベッドを出てシャワーを浴びる為にバスルームへ向かう。

 作らなくても食べられるものあったっけ。昨日の夜よりは楽になった気がするけど、ここで無理したらきっとまたぶり返しちゃうし、スーパーに買い物行かないほうがいいかな。そもそも時計見ていなかったけど今何時だろう。そうだ、昨日スマホ床に落としたんだった。あ、衛輔くんに連絡してそれっきりだったよね。やっぱり会いたかったな。

 泡立てた石鹸に包まれながら放置した問題をぐるぐる考え込むけれど、解決策を選ぶのが面倒になって結局何も答えは出ないまま。
 とりあえずシャワーを終えて部屋に戻り、ようやく床に落ちていたスマホを拾った。

『熱? 大丈夫か?』
『もしかしてすげー体調悪い? 食欲は? 食べられそうなもんあんの?』
『今からイタリア発つ。やばそうだったらすぐにレルーシュカでもバーブシカでも誰でも良いから連絡するんだぞ』
『ロシア着いた。悪い、まだそっちいけない』
『チームのミーティング終わった。まだ寝てる? 熱下がってねえ?』

 並ぶ衛輔くんからのメッセージ。こんな風にメッセージが送られてきたのは初めてのことで、衛輔くんが私のことを心配してくれているのがひしひしと伝わってくる。
 そこまで大事に至ってないことを慌てて伝えようとしたけれど、文字を入力するよりも先に部屋にインターホンの音が鳴り響いた。一体誰だろうと部屋にあるモニターの前へ移動すれば、小さな白黒の画面に映るのはまさにその衛輔くんで。

「名前? 俺だけど」
「……え、もり……え!? なんで?」
「驚きすぎ。そっち行くってメッセージ送っただろ? 食えそうなもん買ってきたから中、入ってもいい?」

 そう言えば「まだそっちいけない」って書いてたけど「そっち」って私の家のことだったんだと、驚きに呆然と立ちすくむ。
 でも私今すっぴんだし。そもそも風邪ひいてるし。だけどこのまま衛輔くんに会えないなんて言えないし、言いたくないし。一瞬の葛藤を経て、私は近くにあるマスクを握った。

「い、いま鍵解除するね」

 逢瀬に浮かれた私の熱がゆるく身体に広がる。

(21.08.20)