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「熱は?」
「あ……えっと、今は微熱まで下がってて」
「そっか。なら良かった。とりあえず必要そうなもん色々買ってきた」

 開口一番に衛輔くんは言ってビニール袋を掲げた。衛輔くんもマスクをしていることに安堵して、私は袋を受け取る。ずっしりとした重さに、きっといろんなものを買ってきてくれたんだろうなと悟る。

「ありがとう。ごめんね、戻ってきて早々に」
「いいって。彼氏なんだしこういう時は遠慮せずに頼れよ」
「ご飯とか飲み物とかどうしようか迷ってたから助かる」
「メシ食った? 名前が迷惑じゃないなら作ろうか?」
「え!? いやいや悪いよ」

 慌てて答える私に衛輔くんは「遠慮すんなって言ったろ」と、甘美な言葉を投げかけてくる。誘惑だ。これは完全に誘惑だ。視線を受けながら悩む私が出した結論は。

「……お言葉に甘えます」
「よろしい」

 輝かんばかりの笑顔。会いたいと願った人が目の前にいる幸せをかみしめる。
 いつもはアパルトマンの前で去ってゆく衛輔くんが部屋の中に居る不思議。多少の乱れはあるけれど、突然の来客に対応できるくらいには片付いててよかったと、自分の部屋なのに胸を撫でおろした。

「もしかして寝てたところ起こした?」
「え?」
「いや、ベッドだけ乱れてるからもしかして起こしたかなって」
「昨日衛輔くんに返事してすぐに寝ちゃって。朝……いや、お昼に慌てて起きてシャワー浴びたから直すタイミングなくて」
「悪い。返事待ってから行こうと思ったんだけど俺が待てなかった」
「あ、ううん! 衛輔くんが来てくれたのはすごく嬉しい。会いたいって思ってたし」

 いつもはすぐ近くで耳に届く街の音もアパルトマンの壁を隔てると遠い彼方にあるようだ。音のない音が生活音として部屋に佇む。

「俺も。名前今頃何してるかなとか、メシ食ったかなとか、仕事頑張ってるかなとか、色々考えてた」

 2人だけの空間。衛輔くんの声色と雰囲気に、なにかとても優しいものに包まれた気分になる。胸に宿る温かさを噛みしめる私を、衛輔くんはベッドへと誘導した。
 
「色々話もしたかったけど、とりあえず今はスープつくるから病人は寝てること」
「わかった。あ、道具とか好きに使っていいからね」

 キッチンへ向かう前に1度だけ弱々しく撫でられた私の頭。調理器具がぶつかる音や食材を切る音が慎ましやかに聞こえてきて、自分じゃない誰が自分の為に食事を作ってくれる事実を実感する。
 複雑な感情を全て手放して、衛輔くんが与えてくれる音だけに集中した。次第にブイヨンの香りが這い寄るように近づいてきて、私の鼻孔を刺激する。

「美味しそうな香り」
「そろそろ出来るからそっち持ってく」

 程なくして、木製のトレーにスープカップを乗せた衛輔くんが傍らまでやってくる。

「見た目も美味しそう!」
「食える分だけでいいから」
「え、全部食べるよ。香り嗅いで一気に食欲感じた」
「あーん、とかしてやろうか?」

 いたずらに衛輔くんは言う。はいもいいえも衛輔くんの手中にはまっているような気がしてすぐには答えを出せない。

「……大人なのでちゃんと自分で食べられます」
「なんだ、残念」

 だけど衛輔くんはちっとも残念がっている様子はなく、むしろ想定内だったのか、私の返答を聞いて満足そうに目元を緩めた。

「あ……」
「どうした?」

 マスクを下そうとして改めて自分がすっぴんのままだったということに気が付く。マスクに手をかけたまま、はっとしながら手をとめた私を衛輔くんは不思議そうに見つめる。

「……いや、私今すっぴんで。その、マスクしてるから今あれだけど、下げたら完全にお披露目しちゃうことになるっていうか……」

 口ごもりながら言葉尻は萎んでゆく。私の羞恥心を理解したのか、衛輔くんは耐えきれないと言った様子で喉を鳴らして笑った。

「衛輔くん! 笑うところじゃないよ!?」
「悪い。いや、だって」

 優しい瞳。慈しみを携えて、衛輔くんは私を見つめてくれる。

「化粧しててもしてなくても名前を好きって事実は変わんないし。化粧してるときは綺麗だけど、すっぴんはちょっと幼くなって可愛い。俺はどっちも好き」

 私はやっぱり衛輔くんの手中にあって、簡単に転がされちゃって、多分それはこれからも簡単には変わらない気がする。
 衛輔くんに与えられる言葉は痛みも苦しさもなく、ただいつも道端の小さな花みたいに寄り添う。観念してマスクを下した私は、衛輔くんが作ってくれたスープを口に運んだ。
 チキンと野菜のさっぱりした出汁が効いたスープにトマトの酸味が後からそっと顔を出して、小さく刻んだセロリから旨味が染み出る。

「おいしい!」
「だろ?」
「衛輔くんの手料理食べるの初めてだよね」
 
 意図せずすっぴんを衛輔くんに晒すことになってしまったけどこれはこれでよかったかもしれない。広がる味に、単純な私はそんなことを思ったのだった。

(21.08.21)