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宣言通り衛輔くんが作ってくれたスープを食べきって、念のためと薬を飲んだ。もう一度体温計を使ってみた結果が微熱なのは変わりないけれど、それでも気分はだいぶ違う。
「何から何までありがとう、衛輔くん」
衛輔くんはベッドの端に申し訳程度に腰を下ろして、布団をしっかりと私にかけなおしてくれた。甲斐甲斐しいその様子はまるで親子だとすら思える。
買ってきてくれた食材は全て冷蔵庫へしまった。使った食器も片づけた。私はベッドに入りなおして、体温は微熱。衛輔くんがこの部屋を出ていく時間はきっともうすぐだ。
何か伝える言葉を探すけれど、感謝以外の言葉が思い浮かばない。
「俺さ」
口を開いたのは衛輔くんだった。
「名前と遠出もしたいし、名前の手料理も食いたいし、名前の声で朝起こされたいし、また名前に試合観に来てほしいし、なんだっけ、マトリョーシカの絵付け? もしたいし、名前と一緒にしたいことたくさんある」
衛輔くんを好きだと思う瞬間はたくさんあるけれど、今日もまたその瞬間がやってくる。積もり積もって、それはいつか「何か」になってしまいそうだと思うけれど、その「何か」がどんなものなのかは、まだわからない。
「私も衛輔くんと一緒にいろんなことしたい」
「だから、早く元気になって」
「うん。すぐ治す。それにほら、夜景観に行くって約束果たしたいし」
ただ見つめあう。去り際の空気を感じ取って一抹の寂しさが生まれた。
でも、治ったらまた会える。
「……キスしていい?」
「えっ」
「いや、帰る前にやっぱりしときたいなって」
衛輔くん自身も困ったように恥ずかしそうに言うから、まるで伝染するみたいに私にも似たような感情が芽生える。したい、したくない、しちゃだめ。でもしたい。
「風邪、うつるといけないし」
心を鬼にして言葉にすると、私の顔に自分の顔を近づけた衛輔くんが近くで試すように言う。
「マスク越しならどうよ」
「……マスク越しなら……まあ、良い……かな?」
お互いマスクだし、全然感覚なんて伝わらないだろうけど、こんな眼前に迫る瞳をそらす方法なんて私は知らない。まるで捉えられたように私は動けなくて、触れ合った唇はもちろん感覚なんてないのに、私の心を必要以上に動かした。
一瞬が、永遠の熱を残す。
「あー……やっぱりしなきゃよかった」
悩まし気な声。
「え、ごめん!」
「じゃなくて、物足りなくなるから」
衛輔くんが私の額に自分のそれを合わせる。ぬるいと感じる体温が額からダイレクトに伝わってくる。こんなの逆に熱が上がってしまう。
とても近いのに、触れ合っているのに、私達はこれ以上進むことはないのだと理解できるから余計にもどかしさを感じる。
「名前は?」
「わ、私?」
「もっとしたいってなんない?」
ゆらゆらと動く。心が。瞳が。目は口ほどにものを言うなんて言葉があるけれど、まさにそれで、私たちの瞳は互いに言いたい思いをちゃんと宿していた。
衛輔くんの言う「もっと」を想像してみる。深く、裏側まで進むことが出来たら多分それはとても魅力的なことなんだろう。私も衛輔くんもお互いの知らない部分はまだまだたくさんあって、それを暴くように知っていくことが出来たなら、とても尊く美しいもののように思える。
「……なる」
衛輔くんの瞳に安堵と喜びが宿った。
「じゃあさ」
「うん」
くっついていた額が離れて、衛輔くんは覆いかぶさるように私を眼下に見る。
「次は、泊り、どう」
一瞬かすれた声。それが何を意味するのか分からないわけではない。でも、だからと言ってそう尋ねられるとは想定していなかった私は目を見開いた。
「泊り……」
これまでのどんな瞬間とも違う雰囲気。どうしてこんな風になったんだっけ、と始まりを思い出そうとしたけれど考えることが出来ない。緊張とは違う。でもそれに似た、奇妙な感覚に見舞われて瞬きすら忘れてしまいそうになった。
「俺のところか、名前のところか、どっか有名な高級ホテルとか泊まりたかったら調べるし」
「高級ホテル……」
「いや……悪い、俺がっついてるな……」
たきつけるような夜を経て優しい朝を迎えるとき、出来れば日常に近い場所がいい。蕩けるような顔つきをする衛輔くんの背後には普段通りの光景が広がっていてほしい。それは何も特別なことではないんだと思っていたい。
項垂れかけている衛輔くんの頬に、今度は私から触れた。
「いいと思う、泊り」
今度は衛輔くんが目を見開く。
もう一度だけマスク越しに唇が重なって、不足感が残す熱に心を奪われるのだった。
(21.08.21)