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「ね、髪型とか化粧とか変なところないよね?」

 終業時間10分前。来客がいなくなった瞬間、私はナスチャに尋ねた。今日、この後衛輔くんと会うことを知っているナスチャは肩を震わせて小さく笑いながら答える。

「うん、大丈夫。可愛いよ」
「本当に?」
「本当に。今日のナマエはとっても魅力的だと思う」

 ナスチャのことだし本心から言ってくれているはずだと、私はそれだけで嬉しくなる。魅力的。衛輔くんもそう思ってくれると良いな。

「服、着替えるって言ってたよね? 僕は大丈夫だから先に着替えてきなよ」
「でも時間まだあと少しあるし」
「数分だから問題ないって。それにさっきからナマエ、ずっと時計のほうばっかり見てるから僕までそわそわしちゃう」
「う……申し訳ない。じゃあちょっとだけ早いけど先にあがるね。ありがとう」

 ナスチャの厚意に甘えて、私は数分だけどいつもより早く仕事を終えた。バックヤードでお気に入りの服に着替えて、もう一度髪型とメイクの確認。前回会ったときは意図せずすっぴんだったし体調も不調だったから、今日は自分が気に入った自分で衛輔くんと会いたい。
 うん。大丈夫。
 
「ナスチャ、私行くね。ありがとう。お疲れ様」
「いってらっしゃい。モリスケにもよろしくって伝えておいて」
「うん」

 ナスチャに別れの挨拶をして私はお店を後にした。
 冬の始まりがゆっくりと姿を見せるようになったこの時期のこの時間は、しっとり暗くなった空が広がっている。頬を撫でる冷たい風。きっとまたあっという間にロシアの極寒がやってくるのだろう。
 去年は衛輔くんと一緒にクリスマスマーケットに行ったり、お正月はみんなで年越ししたり、楽しい時間がたくさんあった。来年の今時期はもうここにいられないからこそ、残された時間を存分に楽しみたい。
 衛輔くんやここで知り合った大好きな人たちといつか離れ離れになってしまうのは確かに悲しいけれど、あまり悲観的にならないのは多分、ここで過ごした日々が私の一生の宝物だと胸を張って言えるからだと思う。

「おつかれ、名前」
「衛輔くん! 近くのカフェにいたんじゃないの?」
「窓から名前が歩いてきてんの見えたから出てきた」
「そっか。衛輔くんも練習おつかれさま」

 後ろから声をかけてきた衛輔くんが私の手を握った。温かい衛輔くんの手のひらと私の冷たい手のひらの体温がゆるやかに混ざり合う。

「……今日さ」
「うん?」
「今日、名前のところ泊まって本当にいいんだよな?」

 少しだけ期待がこもったような視線。今更ダメなんて言うわけないし、多分衛輔くん自身も私がそう言うなんて思ってないと思うんだけど、改めて問われると恥ずかしい。共通の認識を持つための確認って感じで、心がむずむずする。

「……改めて聞かれるとちょっと恥ずかしいな」
「悪い」
「出来るだけ気軽に遊びに来てくれると私も気楽かな」
「わかった。俺の事は置物だと思ってくれればいいから」
「置物……」
「喋る置物」

 それは多分、と言うか普通に無理だ。衛輔くんがいなくなった部屋は物足りなく感じるくらいなのだから喋る置物なんて無理がありすぎる。
 衛輔くんが看病に来てくれた日、眠りに落ちた私を見届けて衛輔くんは部屋を後にした。目を覚ました私に衛輔くんがいたという形跡だけが残る部屋。
 いないことが当たり前なのに、そんな風に強く存在を残して去っていくのはちょっとだけ狡いと思う。なんて、衛輔くんには言えないけれど。

「そのまま展望台行っていい? なんか食ってから行く?」
「展望台先でいいよ。まだそんなにお腹空いてないし」
「じゃあ展望台向かうか」

 繋がれた手はそのまま、ウーリツァ・マリシェヴァ通りに向かうトラムに乗ってヴィソツキービジネスセンターを目指す。
 私がエカチェリンブルクに着たばかりのころ、ソーニャと一緒に行った場所。あの時は誰かと、ましてや好きな人と来るなんて想像もしていなかった。あの景色を衛輔くんと共有することが出来るのだと思うと、気持ちは自然とはやる。

「ソーニャと一緒に行ったときはまさか衛輔くんと一緒にくることになるなんて思わなかったし、衛輔くんと一緒に行こうって約束した時はまさか付き合うことになるとは思わなかったし、なんか時々人生って何が起こるかわかんないなぁって不思議になる」
「でた。名前の難しく考える思考パターン」
「え〜。衛輔くんはそんな風に思わないの?」
「思わない」

 はっきりと言い切る衛輔くんの横顔を見上げる。

「言っただろ。名前と一緒にいるとすげぇしっくりくるから余計なこと考える必要もないって」

 わかる気がする。最近は特に。「そうだね」と答えた声はトラムの音に攫われる。出会うべくして出会う相手が衛輔くんだったら嬉しいなと私は密かに思うのだった。

(21.08.23)